入院と手術の話
二月中、ちょっとした手術を受けるために入院していた。
ここしばらくの間、僕がSNSから離れていたのはこのためだ。
始まりは一月の初頭だった。右の肩甲骨付近に強烈な違和感を覚えたのだ。手で触れると背中の皮膚にはっきりとした凹凸が出来ている。軟骨が肥大化したような、何とも不気味な感触だった。
違和感は徐々に痛みへと変わっていった。肩甲骨から背骨にかけての皮膚が熱を帯びてじんじんと痛む。我慢出来るぎりぎりの痛さだったのが、かえってたちの悪さを感じさせた。寝ている時の痛みによるものなのか、唸り声で目覚める事が幾夜もあった。
さすがにこれは生活にも仕事にも支障をきたす――と、二十年ぶりに医者へかかった。
なにしろ病院の医科というのは勝手が分からない。僕は深く考えぬまま、総合病院の皮膚科へと足を向けた。一時間も待たされた挙句、ようやく名前を呼ばれたかと思えば、僕の背中を診た皮膚科の医師から「これは外科の領分です」」と言われる始末だ。凹凸の感じからして皮膚病なのかと思ったけれど、どうやら素人の思い違いだったらしい。
しかたなしに病棟を移動して、外科医の診察を受けた。
やけに面長の医師は、いっさい無表情なままに診断をして、眉一つ動かさず僕に説明を始めた。非常に特徴的な顔立ちの男で、どこかの俳優とそっくりだった。僕は説明を受けている間ずっと、何という名の俳優だったのかを思い出そうとして頭を捻っていた。
(いったい何の役者だったっけ。いや、それよりもアメリカのあの作家に似ているんじゃないか。名前が思い出せないけれど、すごく有名なあの怪奇小説家だ)
「――を切り取るので、入院して頂きます」
そのせいで、肝心の病名を聞き逃してしまった。
僕は普段からこういうポカばかりやっている。些細な点に拘泥するあまり、大事な情報をそっくり取りこぼしてしまう事が多々あるのだ。
(まあいいか。医者に全部任せておこう。切り取ると言っていたし、好きなようにやらせれば悪い事にはなるまい)
そんな風に考えて入院の同意書に署名をした。
そしていざ入院したのが二月の上旬である。
やけに魚めいた顔立ちのナースに病室へ案内された。六人部屋のうち、五つのベッドが埋まっていた。けれど、揃ってカーテンが引かれていたので、他の入院患者の様子はまったく分からなかった。
溜息を一つ吐いて、宛がわれた自分のベッドに腰掛ける。肩透かしを食らったような、微妙な徒労感があった。フィクションでよく見るような、同じ病室の患者たちとの交流を何となく頭に思い描いていたせいだ。
とはいえ、早ければ今日を入れて三日で終る入院生活だ。無理して他の患者たちと馴染む必要はないのかも知れない。そんな風に自分を納得させた。
(いやいや。そんな些細な事を気にかけている場合じゃあないだろう。僕が入院したこの場所は……)
僕の父親は三年前に身罷ったのだけれど、その最期を迎えた場所が、まさにこの外科病棟なのだ。記憶が定かではないのだが、下手をすると僕が今いるこの部屋で息を引き取った可能性すらある。
父は難病を患っており、入院した時点で、もってあと一年との診断を受けていた。それが長いのか短いのか、当時の僕には分からなかった。けれど、病身の父と一年間もつき合わねばならない事と、入院と延命治療に伴う医療費とが、僕にとって多大なる重荷に思えたのは確かである。
だから、そんな父が入院して十日もしないうちに亡くなった時はひどく拍子抜けしたものだ。それも、病死ではなかったのだ。病室で足を滑らせて頭を強打したことが死因だったのである。
つまり、この外科病棟――事によるとこの病室も――は、僕にとっては少なからぬ因縁がある場所なのだ。
病室でぼんやりとそんな事を思い起こしていると、例の面長の医師がやってきた。今日一日は病室で肉体を休めて、手術は明日の昼頃に行うのだそうだ。
「これ以上大きくならないうちに早く切除したほうがよいですからね」
「大きくなるんですか」
「もちろんです。人面瘡ですから」
「人面瘡ですって」
思わず聞き返していた。
「そうですよ。説明したじゃありませんか」
医師の言葉は怪訝の色を帯びていた。当り前である。どこの世界に自分の病名も把握しないまま入院する人間がいるというのだ。改めてそう考えると、自分がひどく常識知らずな人間に思えてきた。
「貴方の人面瘡はまだ成長しきっていません。ですので、今ならまだ表層部分だけ剥ぎ取れば快癒するでしょう」
僕に出来た人面瘡には歯が生えているものの、舌や咽喉は未だ発生していないらしい。また、眼球が出来上がりつつあるものの、視神経は繋がっていないそうだ。
「今よりも成長して、目玉や舌が出来上がるとします。すると、やがて貴方の消化器官や内臓や神経と人面瘡とが接続されてしまうのです。そうなると、剥ぎ取るだけではどうにもなりません。貴方の臓器や神経も部分的に摘出しなければならなくなります」
医師の説明は何とも剣呑な内容だった。しかし、人面瘡そのものの衝撃が大きすぎて、そこまで理解が追いつかない。
そもそも人面瘡というのは架空の病気なのではないか。人の顔をした出来物が生えて障りを起こすという、怪談にしか存在しない現象ではないのか。それとも、人面瘡の名を借りた別の病気が他に存在するのだろうか。
「せっかくですから、一度観てみますか」
僕が不審げな表情を浮かべていたからだろうか。医師からそんな提案を受けた。無論、僕に否やはない。もしも言葉通りの人面瘡だとすれば、そんなものを目にする機会など、この先いつ巡ってくるか分からないではないか。
医師の指示で、例の魚顔のナースが鏡を二つ持ってきた。片方を受け取り、期待半分恐ろしさ半分で着ている服を脱ぐ。裸の背中に対して医師が鏡を向けてくれたので、僕はそれと合わせ鏡になるように自分の手の中の鏡の位置を合わせた。
「あっ」
確かにあった。
僕の右の肩甲骨の下方。背中の中心付近に、手のひらほどの大きさの顔があるのだ。まさしく、怪談に聞く人面瘡そのものだった。
目を閉じ唇を結んでいるけれど、確かに人間の顔をしている。
それも、皺の寄り具合からすると高齢の男性だ。
どこかで見た顔だった。
この顔は――
「完全に眼球が出来上がると目蓋が開くようになります。舌が出来上がれば口を開いて話しだすでしょう」
説明を始めた医師が鏡を動かしてしまった。
僕が持つ鏡から人面瘡の像が消え、記憶の底から浮かびかけていた何かもまた消えてしまった。あと少しで人面瘡が誰の顔だったのかを思い出せたかも知れないのに。
「言葉を話すようになると実に厄介なのです。なにしろ人面瘡というのは恨みを呑み、憎しみを抱えて発生するものですから、しゃべる言葉は総て呪詛と怨嗟の恨み節なのです。医師やナースのなかにはそれを聞いてノイローゼになってしまう者もいます」
相変わらず無表情なままで説明する医師の言葉は、しかし僕の耳を素通りしていた。人面瘡という未知の存在が自分に取りついているという事実。そして、記憶に引っかかる誰かの顔。
何もかもがもやもやとして気がかりだったのだ。
「ですから貴方も、恨みつらみや憎悪を抱いたりすることのないように、せいぜい心を平らかに今夜を過ごすとよいでしょう。人面瘡が貴方の負の感情を滋養にして成長してしまいますからね」
そう言い置いて医師は病室を出て行った。
あの奇怪な人面瘡を目にした僕が、果たして心を平らかに過ごすことなど出来るのだろうか。そもそも今現在、人面瘡は確かな痛みを伴って僕の背に存在しているのだ。
その晩はひどく気がかりな夢を見た記憶がある。
『最近の手術は一瞬で終わる』
そんな話しを幾度か耳にしたし文書でも読んだ。実際に体験すると、本当に一瞬だった。
手術台に寝て麻酔ガスの吸入器を顔に装着した直後に僕の意識は消失した。次に目覚めた時は元の病室のベッドの上だった。
魚顔のナースから、手術は無事に完了したと告げられた。あの人面瘡が消えてしまったことが少しだけ惜しかった。いまにして思えば、写真やムービーに収めて公開すればよかったのだ。
麻酔の影響で上手くまとまらない思考の中で、そんなことを考えた。けれど、一時間二時間と経つうちに手術痕がじわじわと痛み始めてそれどころではなくなった。
いうなれば手のひらほどの範囲の皮を剥がれたわけである。痛むのも当然だ。あらかじめ渡されていた鎮痛薬を飲んだものの、痛みを抑えこむには至らない。結局、まともに寝られぬままに朝を迎える事となった。
翌朝になり、面長の医師が病室へとやってきた。
「ずいぶん見事な人面瘡でしたよ」
表情を動かさずにそんなことをいう。外科医にとっては摘出した患部の状態やサイズが自慢の種になると聞く。この医師もそうなのだろうか。
「検体として大学へでも送らせてもらおうかと思ったのですがね」
そう口にしたところで、医師は言葉を切った。辺りをはばかるように視線を動かす。僕のいる病室の他の患者はみなカーテンを引いていて、寝ているのか起きているのか分からない。そういえば、これまで他の患者の姿をまったく見ていない気がする。しかし、総合病院に患者がいないなんて、そんなことがあり得るだろうか。
だが、目の前の医師は僕がそんな想像をしていることには気付かぬ様子である。彼はわずかに声を落とすと言葉を続けた。
「標本なんかにしてしまうよりも、生かしてもっと成長させようと思ったのですよ」
「なんですって。成長とはどういうことですか」
「あの人面瘡をこうしてみたのです」
医師が白衣の前を開いた。中に着ているのは襟ぐりの広いシャツである。あらわになったその胸元に――
「あっ。それは僕の人面瘡ではないですか」
「はい。私の身体に移植したというわけです」
それは確かに、僕の背中に発生したあの人面瘡だった。昨日の手術で切り離された人面瘡が医師の胸元に張り付いているのだ。
見た目には完全に医師の胸の皮膚と癒着しているようである。さらには、一昨日観たときには手のひら大だったはずが、いまは成人男性の顔と同程度にまで大きくなっているのだ。
「どうです。すでにこんなに成長しているのです。これほどの人面瘡にはそうそう御目にかかれるものではありませんよ」
これまでずっと無表情だった医師が、このとき初めて口元を歪ませた。嗤ったのだ。
「この人面瘡はいったいどれほどの恨みと憎しみを抱えているのでしょうね」
「そんな事、僕に分かるわけがないじゃありませんか」
「しかし、元はと言えば貴方に生えた人面瘡なのですよ」
「だからどうだって言うんです。出物腫物ところ嫌わずというやつでしょう。原因なんて僕の知った事ではありませんよ。恨みだの憎しみだの、馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるようにそう言った。
そのとき、人面瘡が目を開いた。
まるで僕の言葉を聞き咎めたかのように、その瞳がこちらを見据えている。
黄ばんだ歯と紫色の舌を覗かせて、その唇が開いた。
『お前が俺を殺したのだ』
人面瘡が言葉を発した。
『病人の世話をする労を厭い、治療費を支払う苦から逃がれようとして、俺を殺したのだ』
身を焼くほどの恨みに、その舌が震えている。
『お前は俺の穿くスリッパの裏に蝋を塗りつけた。年老いた病人が滑って転ぶように』
煮えたぎるような憎しみに、その瞳が燃えている。
『事故に見せかけて、お前が俺を殺したのだ!』
人面瘡は僕の父親の顔をしていた。