2020年月記・霜月

 十一月一日。普段使いのマスクが減ってきた(なぜか着けて出ると失くす)ので、新たなマスクをネットで探す。夏に入る前くらいから、スポーツ系ブランドを中心に色々なメーカーが自分たちのロゴ入りマスクを販売するようになった。ネットで検索すると本当に多種多様なマスクがヒットして目移りすることおびただしい。なので、僕はミュージシャンのマーチや、ファッションとは無関係のお店のマスクで、なおかつ千五百円以下のもの――と決めて探している。もちろん、会社に着けていけるデザインであるというのは最低条件だ。こうやってときどきマスクを補充するだけで、かなり物欲と収集欲とが満たされる。
 それにしても、なぜマスクが失くなるのかさっぱり分からない。みなはどうなのだろうか。

 十一月三日。サバゲ仲間に誘われて、池袋で開催されている「爆裂祭」というイベントに行く。要するにサバゲに関連したアイテムの即売会だ。ただ、サバゲ業界では有名なレイヤーさんやyoutuberが何人か参加していたようで、ミート&グリート的な需要も大きかった模様。
 大きな買い物はしなかったけれど、ちょこちょこと散財をした。マスクも買った。事前に予習をしてターゲットが絞れれば良かったのだけれど、ツイッターで検索したところ、客として来場するだけでもアカウント名に「爆裂祭参加」というような文言を入れている人が多くて、肝心の出展者の情報がほとんど得られなかった。ときどき話題になるけれど、インフルエンサーでもない一般客の参加表明も良し悪しである。
 イベント終了後は池袋の居酒屋で二時間ほど駄弁る。同行者が居酒屋メニューの「ハムカツ」に一方ならぬこだわりを持っていたようで「どの店も大して違いはないのでは」と僕が述べたところ、危うく戦争になるところだった。本当に日本人にとって食の話題はセンシティブである。
 居酒屋の後はカラオケ。完全にヲタカラ。たまには普通の歌も歌いたい気分である。飲み放題だったのでなんとなくココアと抹茶オレをループしていたのだけれど、これがどうもマズかったらしく、帰り道でかなりギリギリな腹痛に襲われる。基本的に都心部のコンビニはトイレを借してくれないので、今回はかなり焦った。とある飲食店のご厚意が得られなければどうなっていたことか……
 結局、池袋から地元駅に帰るまでに二回途中下車する羽目になった。昔は駅のトイレなんて極烈に汚いか下手したら存在すらしなかったものだけれど、いまはどの駅にも確実にトイレはあるし、それなりに綺麗なので助かる。

 十一月四日。「Another」の新作を買ったので、とりあえずもう一度旧作から読み直すことにする。もはや前に読んだ時(十年くらい前)の記憶は曖昧で、「犯人が誰なのか」という部分しか覚えていない。看護婦の水野さんなんて結構重要なキャラなのに、読み始めても全く思い出せない。こんな人いたっけ?

 この頃、「#いいねの数だけ好きな漫画を言う」というハッシュタグがツイッターで流れ始める。
 同業者やクリエイター仲間が投下している「私の心の漫画」みたいなものを眺めていると、まるで自分と違うのが非常に面白い。
 ながいけん、あさりよしとお、鶴田謙二あたりの作品や、カレカノ、フルバあたりは当たり前に出てきそうだと思ったけれど、案外出ないもんだ。ヤンキー漫画やカーキチ漫画なんて全く出ていない。「ナウシカ」「ドラゴンヘッド」「百舌谷さん」あたりが出てないのも意外。
 僕もやりたかったけれど、これは多分二十作品くらい語って初めて全貌が見えてくるタイプのトピックで、とてもではないが僕はそんなにイイネが貰える人間ではないので諦めた。

 十一月七日。「Another」の一作目を読み終える。自分では印象深い作品だったはずなのに、ヒロインの鳴にまつわるあれこれなんて欠片も記憶になかった。なので、逆に新鮮な読後感である。そもそも僕が「犯人」だと記憶していた人物は必ずしも殺人犯というわけではなかった。びっくりするくらいあやふやな記憶。
 巻末の解説に、とある「だまし絵」に関する言及があった。「一体、どんな絵だ?」と検索して、強烈なデジャヴュに襲われる。十年前にも同じ検索をしていたのだ。

 十一月八日。部屋の換気を怠っていたせいか眠りが浅く、午前四時頃に目覚めてしまった。ベッドの上でごろごろしているのも無駄な気がして、陽の昇らぬうちからネットを徘徊する。入眠のタイミングを計るのも業腹だったので、睡眠時間二時間程度で日曜を過ごすことにする。そのせいで午後はずっと半覚半睡の状態だった。日付が変わる前に一杯飲んで布団に入る。一瞬で寝た。

 十一月九日。「拳闘暗黒伝セスタス」がアニメ化されるらしい。僕は世界で一番セスタスを愛している人間なのだけれど、これまでにそれを語ったことはほとんどない。一度だけ、飲み会で知り合った代筆業のかた(すごい肩書きだ)とセスタスの話で意気投合したことがあるくらいである。
 つまり、ほぼ誰も「島津六が世界で一番セスタスを愛している」ということを知らないのだ。これでは、アニメが始まってから僕が「セスタスって面白いだろ!」と言ったところで、「ああ、あの人はTVの影響を受けたニワカなんだな」と思われるのがオチである。それが悔しくてならない。そして、アニメが始まってからセスタスを知って「おもしれえじゃん」とか言い出す連中が憎らしくてならない。さらにツイッターで「アニメでセスタスを知った人は原作も面白いから見て」とかいうツイートが飛び交った日にはどうなってしまうか分かったものではない。
 完全に老害ファンである。
 ところで、僕の中ではザファル先生には自然と小山力也の声が当てられている。アニメでは誰が演じるのだろうか。(ルスカは石田彰だ)

 十一月十四日。今年一年の経験で「外出するとなんやかんや出費がある」「外出しないとほとんどお金を使わない」という真理を得たので、土日は絶対的な用事がない限り家に引きこもっている。しかし、いざ「出ない」と決めてしまうと、家でなにかを始めることすら億劫になってしまって、文章を書く以外の活動をほとんどしていない。買うだけ買って観ていないビデオは溜まっているし、同じ理由でSteamのゲームも手をつけていないのがチラホラとある。執筆に専念出来るのはアリなんだけど……

 十一月十七日。図書館で文庫版の「新宿鮫」を発見した。最初に出た新書版は九十年発行なので、もう三十年前の小説である。僕が読んだのはたぶん高校生のころなので、二十年以上前のことだ。そのときは「世の中にこんなに面白い娯楽小説が存在するのか!」と瞠目したものだ。とはいえ、それから二十年が経っている。「Another」ではないけれど、恐らくかなり内容を忘れているはずだし、いまの僕が読んで抱く感想というのは当時とはまた異なるはずだ。ということで、借りることにする。
 いま読んでも抜群に面白い。キャラクタの造形、舞台の用い方、なによりもディテールの細やかさだ。そもそも娯楽小説における人物や小道具や舞台というのは物語をスムーズに動かすための装置だ。だから、本来ならば物語に関わらない部分は必要がない。マンガの原稿において「印刷に入らない部分までは描く必要がない」のと同じだ。けれど「新宿鮫」においては、人物でも小道具でも酒場でも、物語とは無関係な各々の個性が確立されている。銘々が各々の人生を歩いていると強く感じさせられるのだ。そして、その人生の一部分がたまたま「新宿鮫」の物語と関わっていた――と、読んでいてそんな感覚に捉われる。個々の物語装置の個性のエッジが立っているのに、それでいて散漫な群像劇にはなっていない。どころか抜群のドライブ感すら生み出している。紡がれる全てが「新宿鮫」の構成要素になっているのだ。こういう物語を書きたい。
 作中に登場する一部の設定は第一巻の時点では出す意味がないのだけれど、わざわざ書いているということは最初から続刊が決まっていたのだろうか。それともダメ元で作った設定をみんなぶっ込んでみたのだろうか。新書ノベルスはシリーズ化されている作品が少なくはない。けれど、当時の大沢在昌は「永久初版作家」と評されていて、恒久的な人気作品を産み出す作家という認識はされていなかったらしい。つまり、二巻以降が出せる見込みなんてなかったはずだ。編集部でいったいどういう判断が下されたのか非常に気になる。
 それにしても、光文社のカッパ・ノベルスに限らず、カドカワノベルズ、講談社ノベルス、トクマ・ノベルズ、ソノラマノベルス……九十年代の新書界隈は本当にアツかった。「ドラゴンナイト4」「ランス」「VIPER」を始めとするエロゲーも新書でたくさんノベライズされていたし。

 図書館のある区役所には自由図書(持ち帰り自由の本)のコーナーがあって、いつ行っても有名無名のSFが置かれている。たぶん、地元のマニアが少しずつ処分しているのだと思う。この日はレイ・ブラッドベリの「何かが道をやってくる」が置かれていた。超有名作品だが未読だったので頂戴してくる。家でこの本を読み、会社で「新宿鮫」を読むという寸法だ。

 十一月十七日。「何かが道をやってくる」を読み始める。文体が重い。状況(というか読者のカメラ)がかなり行きつ戻りつするのだ。「当たり前に登場しているこれはなに!?」と思って読み返すと、ニページくらい前にさらりと一言で紹介されているようなことがザラにある。逆に言うと「なんか急に出てきたぞ」という謎めく存在が、数ページに渡ってほったらかしにされていたりもする。
 心情描写もなかなか不可思議で、今の今まで恐怖と猜疑心に苛まれて汲々としていた人物が、幻想的な現象を目にして急に歓声を上げたり、あと一息で相手が倒せるというような状況で、雰囲気に流されてあっさりと銃を手放したり。
 どうもちぐはぐな文脈だな――という印象が拭い切れぬまま読み進めた。当然ながら不気味なサーカスの描写にしても主人公二人の胸躍る冒険にしても、このせいでスムーズに頭へ入ってこない。「ぺしゃんこのハーモニカ」ってなんだ?

 この往年の名著を読んで感心出来ない自分の感覚がおかしいのだろうか。そう思って念のためにアマゾンのレビューを見てみた。どうやら僕の感想はあながち的外れではないようだ。翻訳って大変だ。

 十一月二十五日。午前中は会社の健康診断で、午後は有給という日だった。朝八時半頃から会場に並んだので、十時前に健診は終ってしまった。そのままのんびりと吉祥寺へ向かう。上條淳士の展覧会が目的だ。
 前日からほぼ丸一日食事抜きだったので、吉祥寺の曼陀羅で大盛りカレーを食す。具の粉砕されたカレーが餓えた消化器官に優しく沁みた。
 午後二時を回ったころに会場の画廊に向かう。名目としては「To-y」のファンブックの出版記念なので、上條淳士本人プラス参加作家の画稿の展示がされていた。楠本まき、榎本俊二、田島昭宇といった、僕の青春を色どった作家たちのナマ原稿には感動しきりである。さらに、折りよく作家本人が在廊していて画集にサインをして貰えたのは実に僥倖だった。

 画廊を眺めたあとは、アトレでお菓子を買って神保町へ向かう。顔なじみの書店さんへの手土産である。十二月中に「たいせつなお知らせ」をすることが確定しているお店なので、複雑な心境だ。
「そこに行けばなにかしら欲求を満たせる本が買える書店」が消えるというのは、寂しい以上に厳しい。

 十一月二十八日。今年出来たばかりの「つくばサバゲーランド」という茨城のフィールドへと向かう。僕の経験したフィールドの中では恐らく最大。セーフティエリアも広くて快適。
 広いぶん大味な舞台構成というフィールドはとても多いのだけれど、「つくサバ」は実にタイトな作りだった。大雑把なようでいて隙がないのだ。ガンの性能が悪くとも位置どり次第でどうにでもなるし、高性能のガン同士による遠距離での打ち合いも可能という万能型である。
 照明がとても少なかったので、晩秋や冬場は自前のライトが必要そうだけれど、それ以外は非常によく出来たフィールドだった。

 すぐ近所に「牛久大仏」があるというので、少々足を伸ばしてみる。林を一つ抜けただけで夜空に浮かび上がる大仏の姿が目に入った。「わざわざこんなサイズを作ったのか!」と感心するほどの威容。夜陰に佇立する巨大な仏像の神秘性。仏教に対する考えなどは別にして、一見の価値はある。

 十一月二十九日。とある女流作家の先生が、ツイッター上で読者(?)に絡まれていた。女流作家に限らず、「なにかのプロの女性」というのは割と大変で、異性からは「女だからちやほやされているだけ」と妬まれるし、同性は同性で純粋に成功を嫉むらしい。どんなプロでも世に出るには世に出るだけの理由があるのだけど、どうしてもそれが認められないのだろう。
 僕自身、コンプレックスの塊なので無闇やたらに嫉妬する心情は分からなくもないんだけど。

 今月読んで面白かった漫画。

『瀧夜叉姫』……前の連載からほとんど間をおかずに発表された伊藤勢の新連載。ぱったりと描くのを止めたり、雑誌が消えてフェードアウトしたりといった時代を経験しているだけに、供給の安定は非常に嬉しい。原作があるとはいえ、物語のディテールはほぼオリジナルだし。なにより伊藤勢のスターシステム全開である。「ああ、今回の宮本武蔵はこいつか」みたいなニヤリ感がすごい。遮光器の女性は迷企羅かな。

『ゆらゆらQ』……ノンストレスで読めそうだったので、なんとなく購入したのだけれど、本当にノンストレスな作品。ヒロインがぱたぱたするだけの作品とも言えるのだけど、その愛くるしさが度を越えている。少女マンガは割りとポエミーな女の子が登場しがちではあるけれど、この作品のヒロインはただの天使ちゃんではなく「萌え」要素がきっちり成立している。妙技である。

『怪獣自衛隊』……「シン・ゴジラ」をもう少しヒロイックに描いてみましたというノリの作品だと思うのだけれど、第一巻の時点では未だ物語のイントロすら終っていない様子。怪獣がめちゃめちゃキモい。「シン・ゴジラ」ばりの重厚なポリティカルドラマになるかも知れないけれど、「物語の重厚さ」は「作品時間の遅さ」とほぼイコールなので、読者に飽きられ易いという問題を抱えてもいる。場合によっては三巻くらいであっさり打ち切られるかも知れない。あの硬そうな怪獣をどんな兵器で倒すのかが非常に興味深い。でもたぶん、ベルセルクの「海神」みたいな感じで主人公が体内に潜って殺すんだろうな、と思う。怪獣退治への自己犠牲は芹沢博士へのオマージュでもあるし。

『ガニメデ』……ツイッターにも書いたけれど、とにかく面白い。笑ってしまうくらいの残虐性。こちらが疑問を差し挟むより早く展開する物語。飲み込みやすい(≒なんとなく納得させられてしまう)シンプルさ。「怪獣自衛隊」とは全く異なるモンスターパニック作品である。「トレマーズ」や、初期「彼岸島」に感じたのと同じような底知れぬエンタメ性が湛えられている。

 来月で終ります。
 一部敬称略とさせていただきました。ご了承ください。

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