同じだけど違う世界がある恋愛という宇宙
5冊目の本は、鴻上尚史『ごあいさつ』です。
鴻上尚史さんといえばアエラドットの『ほがらか人生相談』で僕たち庶民の人間関係にまつわる様々な悩みを的確かつ真摯に、そしてやたら長い文章で答えてくれる連載エッセイで知った方も多いと思います。
僕にとっては、小劇場界の英雄的存在であり、最も尊敬する文筆家のひとりであると同時に、非モテ系人生を歩んできた僕の恋愛の先生であり、モテ・テクニックはすべて鴻上さんの戯曲と著作から学びました(ってかなりヤバい人ですね、それ)。
鴻上さんはご自身を「ぶさいく村の住人」と称して、不細工を自覚することの美学や、恋愛について外見が大きな影響を与える不条理と現実を受けとめつつも、それでも誰もが平等に享受すべき恋と愛について語ってくれるのですね。同じくぶさいく村の村民ナンバー1078の僕にとっては多感な時期にどれほど救われたことか。
いや、ところで、この「ごあいさつ」は恋愛本ではありません。第三舞台時代から鴻上ファンにとっての楽しみは毎回の公演を見に行くと配られる彼の「ごあいさつ」というコラムでした。舞台の創作意図であったり何気ない日常の中の発見を、顔に似合わない(失礼!)丸文字の手書きでびっしり書き連ねたプリントをもらえるのですが、「ほがらか人生相談」以上にぐっと刺さる名言が満載なのです。
いつだったか、とても大好きな女子がいて、彼女を誘って鴻上さんの舞台にいったことがあります。そのコはいわゆる「キラキラ天真爛漫系美人」で、別に僕が不細工かどうかに関係なく、僕の興味の対象が彼女の無邪気な好奇心をくすぐる限りにおいて関係を成立させることのできる程度の間柄でした。
残念ながら、僕はキラキラ村に入村したこともないし、キラキラ村の住民とは恋仲になるなんてハナから考えてもいない恋愛カーストの底辺を生きてきたわけですが、こうして舞台に誘えば一緒にきてくれるし、わずか2時間でも彼女の貴重な時間を共有できる程度にはそのきらきらを享受したいとも思っていました。それは恋というのでしょうか。
その時の鴻上さんの「ごあいさつ」がたまたま恋愛に関してだったのですが、ざっくりいうと「恋愛には終わりがある」ので、相手がどんなに他の人に恋い焦がれていようとも、2年、3年と経つにつれその感情にほころびができることがある。
それまでの間「想い続けること」ができるか、そうとうな忍耐をもってすれば、道が開けないわけではない、的な話でした。
そう表現するとチープに聞こえてしまうけど、なんだろ、恋愛は希望があるから絶望もあるのだ、どんな人にも、ぶさいく村でもキラキラ村でも恋愛は等しく希望と絶望がともなって経験するものであり、その意味では同じ土俵にたっているのである、的な解釈をして、なんだかすごくポジティブな気持ちになれたわけです。
そして、「ごあいさつ」を読んでいる隣には、キラキラ女子が座っていて一緒に僕の好きな演劇をみるという希望がそこにはあったわけですね。
しかし劇が終わった後、ソッコーで絶望がやってきますキラキラ女子が何の気なしに
「考え方は分かるけど、無理な人は3年経ってもやっぱり無理だけどね」
と吐き捨てるわけですよ。敬愛する鴻上さんの主張を一蹴しやがった不誠実さへのいらだちと、ぶっちゃけ彼女のいうとおりなんじゃないかという敗北感とで、一気に負の感情に埋め尽くされました。
その時改めて世界は「同じなんだけど違う」という境地に達したような気がします。例えばアクセルとブレーキがあるという意味では同じだけど、F1カーと軽トラックが同じサーキットに同居することがないような、そんな感覚です。
そのあと彼女と食事に行ったはずなのですがまったく記憶がありません。いや、そのまま帰ったような気もします。とにかくあの日の夜の空はどんよりした灰色でした。