正岡子規を舐めるなよ
先日、松山へ行き、温泉に浸かったり団子を食べたりして癒やされた。首の痛みが少しは落ち着くかと思ったが、やはり痛くて、それでも癒やされたことには違いない。道後は昔から湯の町で、湯神社、などという神社もある。夏目漱石が中学校教師をしていたのもこのあたりで、『坊っちゃん』の舞台となっている。青空が広がり、湯あがりの体に吹く冷たい風はことさらに気持ち良く、蜜柑ジュースを飲みながらふらふら歩いていると、正岡子規博物館という建物が目に入った。
正岡子規いうたらあれや、柿食うてて病弱で横顔のハゲのおっさんや。くらいのイメージしか無かった自分だが、どうやら松山出身らしい。博物館の巨大な垂れ幕には野太い筆で巨大な一句が書かれてあった。
『冬や今年 我病めり 古書二百巻』
それを見て自分は、大いに微笑んでしまった。この俳句は果たしてどういう意味だろうか。今年も気ぃついたらもう冬ですやん、おれごっつい病気でしんどいから、古い本二百冊読んだろか思てる、といったところか。自虐であり物悲しい、そんな句を博物館の垂れ幕にでかでかと表示しているのも面白い。自分は気が付くとエントランスに入っていた。そこにも筆字で一句書かれた看板があった。
『十年の汗を 道後の温泉(ゆ)に 洗へ』
今度は激シブな感じで、格好付けて、十年の汗を洗へ、ときた。この時点で、正岡子規、お前結構やるやん、と感心していた自分は入館料400円を払って中に入り、正岡子規の生涯を見流した結果、あんたおもろいやん、今まで舐めててすみません、という気持ちになった。
子規は、本名が升(のぼる)という。子供時代は不細工で、ボサっとした、あかん子だった。アメリカから日本に輸入されてすぐのベースボール、つまり野球にハマったのぼるは、キャッチャーをした。しかし体が病弱なので野球を諦めて勉強に専念、故郷松山を出て東大に入る。学生時代は寄席に行ったり柿を食べたりした。喀血もした。その頃から俳句を作り出す。「子規」というペンネームは、ホトトギス、という意味で、ホトトギスは口の中が赤い、子規もまた、すぐに血を吐くので、おれってホトトギスみたいやん、という理由である。当時名乗っていたペンネームは他にも30個ほどあり、「浮世夢の助」みたいな格好付けたものもあれば、「面読斎」めんどくさい、なんてものもある。「四国の猿」というのはなかなかのセンスだ。「野球」は、のぼーる、と読む。ふざけすぎである。本名がのぼるで、野球が好きなので、のぼーる。この名を思い付いたときにはきっと、ガッツポーズをしたに違いない。腹立たしい。
ともかく、のぼーる改め子規は、俳句を作る。大学を中退し、その後新聞社に就職した頃、戦争が始まる。報道の世界も過酷になり、病弱の子規は徴兵免除にも関わらず、おれも戦争行きますわ!ジャーナリスト精神ですわ!と言うたかは知らんが、弱い身体を引き摺りながら、取材をしに異国の戦地へ行く。だが、着いた頃には戦争がちょうど終わっていた。帰国する。何やそれ。阿呆丸出しやないか。
その後、学生時代からの友人である夏目漱石が松山で教師を始めて、都会に疲れた子規は故郷の松山に帰る。そして漱石ん家に転がりこんで二ヶ月ほど暮らす。漱石いわく、「勝手に来ていつの間にか家に居座って、何やこいつ、そやけど俳句はめっちゃおもろいから、子規くん、おれにも俳句教えて」という感じで、二人は俳句を作ったり、温泉に浸かったり、柿を食べたりする。十年の汗を洗へ、もこの頃の作品。子規は、今度は奈良行こう思うねん、言うて漱石に金を借りて奈良へ向かう。その途中に病気が悪化し、ふらふらで奈良入りし、かの有名な『柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺』などを詠む。ふらふらで詠んだとは思えぬ滑稽な句である。同時期に、『渋柿や 古寺多き 奈良の町』などという句も作っている。柿好きなんだね。
その後は東京の家で歩くことも出来ず病に伏せて、そのまま本を三冊書き上げて絵を描きまくり俳句を詠みまくり、死んだ。34歳だった。
のぼーる改め子規の書いた手紙やメモ、そして俳句はどれもユーモアのセンスが抜群で、死ぬ間際に友人に書いた手紙には、「昨日シャンパン飲んでん。シャンパン。美味かったわ。ところで、もうじき死にそうやねん」といった文章(フリとオチが効いている)や、「おれ死んでも墓とかいらんで。その辺の石ころでええから。まあでももし墓作るんやったら、入れて欲しい文章あるねん。別に墓とかいらんねんけどな。でも、もし作るんやったらの話な。この文章は絶対入れて欲しいやつやから。それは別紙参照にするわ」と来て(ほんまは墓作って欲しいんちゃうのん)、別紙には「松山生まれ、正岡子規。又の名を升。又の名を野球。又の名を~」と延々又の名が続き、最後に「給料40円」と書いてある(名前でオトすと見せかけて貧乏でオトす)。
そうしたユーモアセンスを目の当たりにした自分はすっかり、のぼーる改め子規ファンとなり、売店で本まで買ってしまった。のぼーる改め子規が生涯発表した俳句は二万作品を超えるという。本を読むと、『睾丸を のせて重たき 団扇かな』などのふざけた句も多い。とんでもない奴だ、と思った。博物館を出ると相変わらず馬鹿でかい空は青々として、雲は無く、自分も一句詠んだ。
『澄み渡る 道後の空に 首痛む』
駅前には野球のユニフォームを着てバットを握る、のぼーる改め子規の銅像が設置されていた。のぼーる改め子規もきっと、天国で喜んでいることだろう。
何もいりません。舞台に来てください。