小骨が喉に引っかかったら
「あの子の名前なんやっけ。」
私はカレー店でバイトをしている。3年間勤めたがあと数ヶ月で卒業だ。その日は開店準備を進める中、店長のコジマさんと社員のキビさんが、かつていたバイトの記憶を蘇らせようとしていた。
「ほら、タリーズと掛け持ちしてて、目がクリクリの女の子。よく差し入れでパンを持ってきてくれた。そんで、すぐ辞めちゃった。」
コジマさんが、同一人物かも怪しい断片的な情報で、元バイトを復元していく。
「え、全然わかんないです。」
とクールなキビさんが一蹴すると
「おった期間が短い子はさすがに忘れちゃうわー。あ、ほうれん草の仕込みしないと。」
コジマさんは慌ただしく動き出した。ジュッーとフライパンが一気に音を立て、元バイトの記憶もカレーの匂いに混ざって消えていく。
でもしばらくしてやっぱりコジマさんが、
「うわー、タリーズの女の子思い出したい!」
差し入れのパンの匂いは、カレーの匂いにまだ負けていなかったみたいだ。
コジマさんは少しの間考えていたが、
「あかんなー、記憶力がもうない!」
と笑いながら頭を抱えたポーズをした。あまり真面目に思い出そうという感じではない。
でも、もしコジマさんがその子の名前を思い出せたら、満足と一緒に彼女の記憶も薄れてしまいそうな気がする。それならいっそ、名前はなくとも、"気になるタリーズガール"のままでいてほしい。
しばらくして、コジマさんが
「勤務初日に飛んだバンドマンがいてさ!あいつの名前は絶対忘れへん!」
と怒りのこもった声で話し出した。
「面接で共通の知り合いがいて盛り上がったの。それなのに飛ぶ度胸がすごいよね。その知り合いに告げ口してやった!あいつマジ信じられへんって言ってね!」
コジマさんはテンションが上がると、ソーラン節くらいジェスチャーが大きくなる。
そのバンドマンは1日もこの店で働いていないのに、いつまでもコジマさんの脳内で生きている。むしろイキイキと。
もうすぐ店を開ける時間だ。
コジマさんが
「テルモトくん、社会人になってこの店に来た時には先に名乗ってね。」
と話を締め始めた。
「え、ぼくの名前忘れちゃうんですか。」
するとキビさんが
「人間だからパッと出てこないこともあるっていうね。」
開店時間になりお客が入る。私たちはしばらく忙しく動いた。私は食器を洗う。
自分はこの店にどんな匂いを残すのだろう。さすがにパンの匂いには負けないはず。
考える。洗剤で汚れがキレイに流れていく。昔のことも思い出した。
高校2年の秋、私は中学ときの担任の先生を駅で見かけた。つい嬉しくなって、先生を追いかけ声をかけた。
先生は、
「あっ!1年の時の!あっ、」
と、私の名前を秋刀魚の骨のように喉につっかえさせ、焦っていた。
先生は年に数十人の生徒の名前を覚えるのだから仕方ない。あの1年間が特別なのは自分の方だけだ。でも私は、高2になって初めてそのことに気づき、少し寂しくなった。授業を飛んでいれば覚えてもらえていたのかもしれない。
お客の入りが落ち着いた頃、キビさんと話した。
「店に来るときは、サークルの新歓みたいにガムテープの名札を貼って来ますね。」
冗談で言ったつもりだったが、キビさんは
「てるもとくんは大丈夫、忘れないから。」
なんとも大胆な宣言。ほんとうですか。大漁旗ほど立派なフラグにはなりませんか。「大漁」の筆字くらいの思い切りの良さに不安を感じながら、でもその言葉が嬉しくて、恥ずかしくて、目線のやり場に困った。私は新入生みたいだった。
私が店を卒業したら、私の匂いは薄れていく。でも私にとっては相変わらず特別な3年間で、開店準備中の会話も、ミスを許してもらった回数も、まかないにつけてくれる山盛りのコールスローも、髪の毛にまで染みつくカレーの匂いも、店のみんなの名前も、きっと忘れられない。
ときどき、つっかえた小骨を取りにお店に行きます。