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私が、奄美を発信するわけ。

私はなぜ、この活動を始めたのだろう。

もともと私は、奄美の出身ではない。4年ほど前に、両親のUターンで移り住んだ人間だ。
両親の出身地で、たまに帰省で行く場所。私にとってそれでしかない存在だった奄美大島に、愛着なんてなかった。

思い返すと、最初は教育関係に関わりたかった私。

それまで住んでいた場所が鹿児島、長崎、と歴史的にゆかりのある地域だったこともあって、小学2年生の時に歴史へ興味を持ち、その後も史跡のガイド本や雑誌を読みふけった。
ロマンにあふれた歴史の世界。この素晴らしさを分かってくれる友達はごく一部だったけれど、私は構わず語りまくった。
これまで何度か引っ越しを重ねたけれど、どうしても捨てられなかった当時の歴史雑誌。
この素晴らしさを、もっとたくさんの人に伝えたい!
そんな思いもあって、いつしか将来の夢は、歴史の教員になっていた。

中学2年の時には先生の授業に不満を抱いて、「自分ならこんな授業にしたい」というアイデアを書き溜めたノートを作成。高校に入学後もその気持ちは変わらず、模試の志望校記入の欄にはなんの躊躇いもなく「教育学部」の4文字を書き入れた。

自分の選択に、何の迷いもなかったそれまでの私。

そんな中、転機がやってきたのは1年前だった。
島の出身者で構成された大島高校の野球部が、強豪私学のひしめく九州大会で準優勝を収め、甲子園球場で行われる春のセンバツへの切符を手にしたのだ。

強豪私学が当たり前のように野球エリートをかき集め、甲子園を席巻する時代において、離島の野球少年たちが起こした奇跡は、野球界に衝撃を、奄美大島の住民に大きな喜びをもたらした。島内でのPV(パブリック・ビューイング)では、泣いて喜ぶおじいちゃん、おばあちゃんが続出。

地元の高校生の頑張りが、地域に大きな力を与えたのだった。

甲子園出場決定後も、老人ホームの入所者が千羽鶴を折ったり、寄付金が募られたりするなど、島の人々が一体となって高校生をサポートした。

奄美市は、甲子園出場に合わせて1000万円の支援金を計上。

試合には敗れたものの、人の思いの強さをひしひしと感じさせられた。

奄美大島はすでに過疎化が深刻化しており、小中学校の閉校・合併が進んでいる。期待されていた世界自然遺産登録による観光の発展も、コロナ禍による大損害を被った。

毎日の生活も、決して楽ではない状況。
そんな中でも人々を突き動かした思いの源は、この奄美という島への思いなのではないかと思う。

「田舎者」と馬鹿にされることを恐れて、奄美の出身であることを隠し通していた人もいるくらい、本土への劣等感を感じていたひと昔前。

その頃からは変わって、胸を張って「奄美大島の出身です!」と言えることに純粋な嬉しさを感じた人がたくさんいたのだ。

今、人口減少に歯止めがかからず、限界集落も発生するこの島が未来への活気にあふれているとは言い難いかもしれない。
でも、人々はこの地への愛と誇りを、決して忘れてはいないのだ。

私は、野球場で奄美出身の方が、「島人(しまんちゅ)で本当に良かった。」と嬉しそうに語っているのを目の当たりにした。

だからこそ、この島をもっとたくさんの人に好きになってほしい。

かつて自分が歴史を好きになったように、「奄美っていいな」と思ってほしい。

だから、これからも頑張って活動していきます。

しばらく更新が止まってしまいましたが、ご安心ください。
シマのウチはまだまだ止まりません!

[たまごやき]

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