つくること。つかうこと。
気候変動と災害へのもやっとした不安を少しでもクリアにしたいという思いから、森林や林業に興味を抱き、一般的な林業や自伐型林業、木材利用の状況、土中環境、世界の森林のことなどを学ぶようになって2ヶ月ほど。天然林は自然更新がなされるのに対し、いったん人の手が入った人工林は、適度に人の手を入れ続けなければ保たれないことを踏まえ、木を伐る、道をつくる、ということがもたらすいい影響と悪い影響について深く考えるようになりました。
風力発電の巨大な部品を載せたトラックを通すためには道幅5mくらいの道路が必要という話もあるらしく。森の中にそれだけの余白を開けるためには、短期間にどのくらいの木を伐採することになるのだろうなーとか。一気に差し込む光によって、その周辺の森林の土中環境や草木の状態、生態系も変わってくるのだろうなーとか。となると、下にある集落って大丈夫かなーとか。限られた知識と感覚のなかでいろんなことを考えながら、それぞれのまちのハザードマップと照らし合わせながら見ていました。
風力発電をはじめとする、「エネルギーをつくる」行為には、賛否の大きなうねりがあるのだなとも感じています。一方で、「エネルギーを使う」行為にも同じようにうねりがあってもいいのだよななんてことも、いまさらながら思い始めています。遅いよ!って叱られそうだけど、それでも考えないよりずっといい。
そもそも、そうした施設をどこかに作らなくっちゃ、なりたたないものなのかしら。今、必要と思われている電力のすべてをまかなおうとすると、そういう流れになるのだろうけど、実は暮らし方というか、私の生活のなかにあるひとつひとつの選択を変えていくことも必要なのじゃないかしら。世界と違って、日本の人口はこんなにも減り続けているのに。みたいなことも考えながら、眠った夜。
朝方見た夢には、ドラム缶みたいな形のかまどがあって、上に使い古した大鍋が置いてありました。私の背丈よりも高いドラム缶の向こうには鍋をのぞきこむ祖父がいて、油に浮かび上がってきたガネアゲをお箸でひょいとつまみあげ、ハフハフしながらかぶりついていました。土間の炊事場は私の記憶にある限り、祖母の占有地だったし、私の記憶にある祖父は歯がなくて、かぶりつくよりむしって食べる、みたいな感じだったのだけど。そんな細かい違いは置いといて。激動の明治・大正・昭和を生き抜いた祖父母が刻んでくれたくらしの記憶に、なんだかあったかくてしあわせな気持ちを感じた朝です。
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