塗り重ねたもの
個人的な話で恐縮ですが、僕は小学校二年のころより、祖父母の影響でNHKの朝ドラをみるのが日課となっています。
これまで30作品ほどみてきましたが、その中で個人的に1、2を争う作品が2007年に放送された「ちりとてちん」です。貫地谷しほりさんがヒロインのこの作品は、ごく簡単に言いますと、自分に自信がなかった主人公がやがて落語家になっていくという話です。
2007年当時は僕はまだ幼稚園児でしたので、放送していた当時にはこの作品を観ていません。僕が「ちりとてちん」を初めて観たのは中学1年のとき、BSの再放送がきっかけです。そのとき、落語のことは何もわからなかった僕ですが、とにかく感動的なシーン、生き方を考えさせられるシーンが多く、大変好きな作品となり今に至ります。その後、昨年「もう一度みたい」という気持ちになりNHKオンデマンドで観、そしてつい先週また観はじめ、今は3周目です。
ここまでくると、もはや「ちりとてちん」は僕にとって単なる娯楽ではないのではないか、生き方を教えてくれる「先生」のようなものなのではないか、と最近思っています。
そこで、「ちりとてちん」の中から、特に僕の心にささる場面を紹介していきます。
(以下、ネタバレを含みます)
第1週(第1~6回)は、主人公和田喜代美(きよみ)の子供時代の話です。物語は喜代美が福井県小浜市の小学校に転校するところから始まります。喜代美の祖父(米倉斉加年さん演)は小浜で若狭塗箸の職人をしていて、喜代美の父(松重豊さん演)は最初は職人を継ぐつもりでしたが、諸事情により(長くなるので省略します)実家を出て、別の町で結婚し、喜代美とその弟、二人の子を養っていました。ところが、父は再び職人を継ごうと、10年ぶりに小浜の実家へ戻ったのです。
さて、喜代美が転校してきた小学校には同姓同名の和田清海という女の子がいて、清海は才色兼備で、喜代美はたちまち劣等感を抱くようになります。また、同姓同名がクラスにいてはややこしいということで、清海が(A子)、喜代美が(B子)と呼ばれることになります。そして、その呼び名通り、喜代美はますます「自分はA子の脇役みたいだ」、「A子はいつも自分の邪魔をしているみたいだ」と悩むことになります。
ある時喜代美は、その気持ちを祖父に打ち明けます。
すると祖父は、喜代美に塗箸の作り方を教えるのです。
塗箸は生地に貝殻や卵の殻の破片、松葉をちりばめて模様を作り、その後に漆を何重にも塗ります。ただ、大事なのはその後の工程で、漆が塗られた箸を石で丁寧にといでいきます。そうすると、きれいな模様が出てくるのです。
そこで祖父は言います。
「人間も箸と同じや。といで出てくるのは、塗り重ねたものだけや。一生懸命生きてさえおったら、悩んだことも落ち込んだこともきれいな模様になって出てくる。お前のなりたいもんになれる」
この言葉は、この後何度も喜代美の背中を押すことになるのです。
第2週(7~12回)は、喜代美が高校三年生のときの話です(おじいちゃんはすでに亡くなっています)。当初喜代美は、周りに流される形で地元の短大に進学しようとしていました。ところが、あることがきっかけで(これも長くなるので省略します)、いつもA子の脇役かのように過ごしてきた小浜を離れ、大阪に出ようと決めるのです。
しかし、両親は大阪に出ることに猛反対し、喜代美と喧嘩になります。一度はその勢いのまま家出しようとするのですが、弟に「一晩考えてみたら?」と諭され、次の日の朝を迎えます。
ところが、喜代美の決心は変わりませんでした。父に対し次のように言います。その時、おりしもお父さんは工房で塗箸を作っていました。
「ごめん、お父ちゃん。うちやっぱり行く。
おじいちゃんに言われてん、人間も箸と同じやって。
私、といでもといでも後悔ばっかりのお箸になりたくない!」
ここで、箸を作っていたお父ちゃんの手が止まります。
「こうやって、お父ちゃんと喧嘩して家を飛び出したことも、いつかきっときれいな模様になると思う。そうなるように、一生懸命生きるから。」
そう言った喜代美を真剣なまなざしでみつめたお父ちゃん。お父ちゃんはそれに対し、何も言いませんでした。喜代美は、涙を浮かべつつ、
「行ってきます」
といい、家を出ていくのでした。
この場面をみるたび、「僕自身にとっては何が塗り重ねたものになるだろうか?」と考えます。まだ21年しか生きていない僕は、喜代美ちゃんみたいに、今は塗っている最中なのかもしれません。
しかし、この短い人生の中でも、悩んだり落ち込んだりしたからこそ得たものがあると思うのです。もし一度も悩んだことがなかったとしたら、おそらく僕は儒学や仏教といった古くからの思想に耳を傾けることすらなかったと思います。また、人は自分が悩んだからこそ、ほかの人の悩みに寄り添ってあげたい、助けてあげたいという気持ちになれるのではないでしょうか。嫌なこと、つらかったことは忘れたくなってしまいますが、今の自分も案外そういうものに支えられているなと気づかされます。
僕も、後悔が出てくるお箸ではなく、つらかったこともきれいな模様になっているようなお箸になりたいです。
自分だけでなく、ほかの人と接するときも同じです。その人が過去に抱いてきた苦悩をこちらが知り、かつそのつらい過去を受け入れている人をみると、その人がより輝いてみえますし、自然とその人を応援したくなります。
きれいな模様になるには、時間がかかることでしょう。それでも、つらい時でも、喜代美のおじいちゃんの言葉を信じていれば、少しずつでも前に進めるのではないでしょうか。