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私が新聞記者を辞める理由1 変わらない業界体質と、減り続ける部数

 入社6年目で、新聞社を退社する決断をしました。その理由を、退社から半年経った今も、ぐるぐると考え続けています。

 後から理由を考えるだなんて、順序が逆のように思えます。もちろん、辞めた当時も私には、退職という大きな決断に至るだけの理由がありました。

 そして実際に辞めてみてからも、私は外から新聞業界を眺め、「なんで辞めたんだろう」と考えています。未練なのか、自分を正当化したいのか、よくわからないながらも、考え続けています。

 そして、内部にいた頃にはおそらく無自覚だった新聞業界への違和感を、日々発見しています。それらは無意識下で、私の退職の決断に影響を与えたかもしれません。

 こうして、私の中の「辞める理由」の輪郭が、日々形を変えながらも現れてきています。業界が少しでも良くなることを願いながら、そんな違和感の一端を書き残しておきたいと思うのです。

 私は新卒で全国紙の記者になり、5年間現場にいたのみです。ジャーナリズムを体系的に学んだわけではありません。ここに記すことは、あくまで一個人の目に映った新聞業界の姿だと捉えていただければ幸いです。

 

 さて、前置きが長くなりました。私が退職を決めた大きな理由の一つは、「変わらない業界体質への諦めと、それに伴う将来不安」でした。

 新聞が売れない時代です。わざわざ紙の新聞を購読しなくても、ネットやSNSで無料でニュースが読めます(それらの多くが新聞社が配信している記事だったりはしますが)。

 どうして新聞が売れなくなっているのか。時代が変化しているのに、ずっと同じ価値観のもとで取材を続けていることが、一因なのではないか。現場でずっと、そう感じていました。

 業界内の価値観の硬直化を感じた場面は多々あります。中でも私が違和感を抱いていたのが、「他社を『抜く』ことこそ至高」というものでした。

 私はとある省庁の取材を担当していました。そこでの仕事で、業界内で最も高く評価されるのは、「他の報道機関よりも1日、いや数時間でも早く、省庁の動きを報じること」でした。業界ではこれを、(おそらく他社との競争において他社を追い抜く、というイメージで)「抜く」と言います。いわゆる、スクープや特ダネの一種です。

 ところが私は、「抜く」のがどうも得意ではありませんでした。努力も能力も不足していたのでしょう。それにしても、私は「抜く」ことに意義を見出せなかったのです。

 

 『◯◯省が昨日の15時に発表し、他の新聞が今日の朝刊で報じた内容を、A新聞だけ昨日の夕刊で既に報じていた。A新聞のA記者は取材力がある、優秀だ!』

 これが、業界内での記者の評価のされ方です。

 果たして読者は、どこの報道機関が一番早く報じたかどうかなんて、意識しているでしょうか?  世に出るタイミングが少し前後しているだけで、記事の中身はほとんど同じなのです。同じ資料を見て記事を書いているのですから。

 ましてや、今は誰もがネットで、好きなタイミングで、ニュースを読んでいます。

 スマホを触ったときに、たまたまあるトピックが目に入ったとします。複数の報道機関の、似たような見出しの記事が並んでいます。その中で、「A新聞は他の新聞より●時間早く配信しているぞ!」と感心する人がどれだけいるでしょうか? 

 新聞がまだ広く読まれていた時代は、「抜く」スクープに意味があったのでしょう。新聞間の競争が、各社の取材力を高める側面はありますから、「抜く」のを目指すことが全く無意味な営みだとは思いません。

 ですが、新聞社は年々体力が落ち、かつてよりも現場に割けるリソースが少なくなっています。省庁に常駐する記者の人数もどんどん減らされています。

 私がいた新聞は、他社よりも少ない人数で現場を回していました。他社の報道に必死で追いつき、時々追い抜いてみせて高笑いをする。そのための取材にほとんどの時間を費やしていました。

 読者不在の、狭い業界内での「小競り合い」が、現場では日々繰り広げられているのです。

 社会における記者の存在意義を、考えてみます。

 さまざまな答えがあると思います。私は、問題意識を出発点に丹念に取材をして「その取材がなければ世に知られていなかった事実を明らかにする」ことが最も重要だと考えてきました。調査報道と言い換えて良いと思います。
 先ほど、他社を抜く記事は一種のスクープであると書きましたが、調査報道は別の意味でのスクープです。

 記者をしていたとき、この考えに基づいて調査報道的な取材に取り組み、結果的に社会の制度が少し変わり、報道の意義を感じたこともありました。

 調査報道の過程でつかんだ情報で他社を「抜く」ことは、意義があると思うのです。「抜く」ことが目的ではなく、副産物となるようなあり方です。

 あるいは、「抜く」のが得意な記者(あるいは報道機関)はそれをやり、調査報道が得意な記者(あるいは報道機関)はそれをやればいいと思います。
 そうすれば、新聞紙面やテレビやネット空間には、国の発表よりも早く世に出るスクープから、見落とされていた社会問題をすくい上げるスクープまで多様な情報が発信され、より多くの人々の需要に応えられると思います。

 ただ実際の現場では、「抜く」ことが一律に取材の最大の目的と化していました。

 

 私は省庁を担当していたと書きましたが、初任地はとある地方でした。当初から、いずれは本社に上がり、全国に届く調査報道をしたいと思っていました。

 その目標のため、地方時代はある程度の「小競り合い」をやりました。旧来の価値観のもとで優秀な記者だと会社から判断されうるような仕事をどうにかやって、念願叶って本社に上がりました。

 これでようやく、小競り合いから解放されて、もっと意義のある仕事ができる……はじめは淡い期待を抱いていましたが、現実は違いました。

 調査報道には時間も経費もかかります。結果につながるかどうかもわかりません。
 そんな取材にじっくり取り組むには、いくらか他社を抜いて、社内でのプレゼンスを高めてからでないといけない。
 本社にはそんなキャリア観が色濃く浸透しているように思えました。部署や会社によって違いはあると思います。

 「抜く」のは苦手だし、意義も見いだせない。それでも今は我慢して小競り合いを続け、いつかもっと意義を感じられる仕事をするのだ……
 ほら、他社を抜いて存在意義を示しつつ、合間に素晴らしい調査報道をしている先輩もいるではないか......    
 あるいは、後からこんな書き走りをするくらいなら、業界の内部から変革する努力をすべきだった......

 新聞の部数は、私がいた5年間でもみるみる減りました。ネットでの記事配信にも取り組んではいるものの、経営の柱には育っていません。今後柱に育てていくビジョンも、残念ながら見えません。

 30代を前にして、会社が存続し続けることを前提にした長期的なキャリアプランを描くことが、私はできませんでした。
 私は、自分の人生を優先させてしまいました。
 ペンですくい上げたかった声なき声たちに、心の中で何百回も謝りながら、私は報道の世界から去りました。

 裏取りのされていない、真偽不明の情報がネット空間には溢れています。最近の選挙が象徴するように、そうした有象無象が現実に染み出してきている時代です。

 必ず裏を取る。取材を尽くした上で批判する。複数人の目でチェックがなされる。そんな営みを積み上げてきた新聞が今果たすべき役割は、大きいと思います。

 新聞は今も、「他社より数時間早く報じるニュース」に最大の価値を置き、限られたリソースを投入しています。果たしてそのニュースは、読者が本当に求めているものなのでしょうか。

 業界内の凝り固まった価値観が、読者が減り続ける一因になっているように、私には思えるのです。

 

(続く?)

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