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トキソプラズマ

【※長文です】

「悪いね。たいしたもの置いてなくて。ビールでいいか? 簡単に食えるもん作るから、その辺座って先に呑んでてくれ」
「ああそんな、気ィ使わないでくれ。お前も一緒に呑もう」
「じゃあ、これだけ作ったら、そっちに行くよ」

「しかし、いいのかぁ? こんな高そうなソファに、俺の尻なんか乗せて」
「なぁにバカ言ってんだよ。椅子は座るためにあるんだろ」
「うちは猫飼ってからソファは捨てたなぁ。爪とぎちゃんと置いてるのに、わざわざソファでバリバリやるんだあいつは。それでなくても場所とるし。あ、そうだ。これカミさんから。お前によろしくって」
「わざわざありがとう。元気にしてるの?」
「うん。肥っちゃった痩せなきゃ、って言いながら毎晩風呂上がりにアイス食ってる。良かったら今度はうちにも遊びに来てくれってよ」
「ありがとう」

「ほら。豚キムチ」
「ああ懐かしいなあ。あの頃お前が作ったこれで、一緒によく飲んだっけ」
「オレも久しぶりに作った。腕が落ちてなきゃ良いけど。ま、豚とキムチを炒めるだけのことに腕もへったくれもないか。さ、食べよう」

「何か、広さの割には、こざっぱりしてるんだな。あんまりモノ置きたくないのか?」
「どうしても必要なモノだけ残そうとすると、こうなっちゃうんだよ」
「そういうもんかなあ。うちなんか全然片づかなくてごちゃごちゃしてるもんだが、折角広いのに勿体ない。しかし、すごい部屋だよなぁ。38階か。やっぱり夜景、綺麗だな」
「ん? ああ。確かに最初はさ、外眺めながら呑んだりもしてたんだけど、ま、一か月だなぁ。それから後はもう、普通の風景」
「広くて新しくて夜景も綺麗。女の子連れてきたら喜ぶんじゃないか?」
「広いったって、田舎の実家に比べりゃ、全然大したことないだろ。それにさ」

「何だよ」
「女ってさ、なんで揃いも揃っておんなじトーンで『スゴーイ』『キレーイ』って言うんだろう」
「揃いも揃って、って、そんなにとっかえひっかえ連れ込んでんのか」
「必ず言うんだよ。スゴーイ。キレーイ。どこかにそういう音声ボタンでもついてんのかな。何かの呪文? あれ」
「綺麗だと思うからだろ? お前だって最初はそう思ったって言ってたじゃんか」
「そういうことじゃなくてさ、『すごく綺麗』とか黙って目を奪われてるとかならまだ解るんだよ。そうじゃなくて『キレーイ』。で、おんなじような顔でこっちを見る。あれって『喜んでる』のかな」
「女の子に無理言うなよ。じゃ、代わりに何言えばいいんだ」
「『静かでいい部屋ですね』とか? 何でも良いんだけどね」

「確かに静かな部屋だな」
「うん。それが気に入って選んだ部屋だから。『中で人を殺したって隣にバレないくらい、防音がしっかりしてる部屋がいいです』って不動産屋に言ったら『お任せください』って紹介されたのがここ」
「その不動産屋の心臓、鉄で出来てんのかよ。お前も、もうちょっと言い方ってもんがさ」
「後は、コンシェルジュが3階に居ること以外は、わりとどうでもいいんだ。階数でマウントとりたきゃ最上階買うよ。そしたらもっと『スゴーイ』って言われるのかもな。でもそんなスマホゲームみたいなやり取りに金使うの、ばからしいだろ」
「うわ、言ってみたいぜ、そんな台詞。IT系って、当たればそんな儲かるのか」

「ふふ」
「俺、何かおかしいこと言ったか?」
「お前はさ、ほんとはそんなこと思ってないだろ」
「そんなことって?」
「オレが金儲かってて羨ましいとか」
「はははは。いやいや、そんなことはないぞ? あやかりたいもんだ。そしたらもう少し、うちのに楽させてやれるし」
「でも、お前は、そう言うときと、さっき奥さんの話をするときと、同じトーンで、同じようにリラックスして話すじゃないか」
「あ? まあ、うん、そう、か?」

「奥さんのことを幸せにしたい、とは思ってても、オレにカネを出させようとか、自分もいい目を見ようとか、こいつ失敗して破産すればいいのにか、お前何にも思わないだろ?」
「まあ、そりゃあ…」
「この部屋に入れたやつで『幾らしたんですか』って訊かないの、お前くらいだよ」
「だって久しぶりに友達に会うのに、いきなりカネの話もないだろ」
「お前以外はそうじゃないんだよ。オレに会うやつは、どこかでトーンがちょっと変わるんだ。あからさまに言うやつも、隠す奴も。目の色が変わって、身体にちょっと力が入る。
 見てるとさ、解るんだよ、何となく。オレを『カネを持っている奴』という目で見る。それからオレに『カネを流してくれる奴』か『仲間にしてくれる奴』になってもらおうとするんだ。
 だから、オレのことがそう見えている内は反応がいいんだけど、ちょっとでもそういう風に見えなくなると、いきなり反応がぶれる。プログラムにバグが起ったみたいに、ショートしたようになるんだ」
「うーん、何かよく解らんなあ」

「お前、猫、飼ってるって言っただろ?」
「ん? ああ。言ったけど、何だよ、急に」
「お前、猫のお腹に顔つけて、匂い嗅いだりすること、ある?」
「ああ、俺はやらないなぁ。『猫吸い』だっけか」
「あれさ、自分の飼い猫が良い匂いを発する可愛い猫だから、って多分やってる本人は思ってるんだと思うんだけどさ」
「うん」
「そんなことないだろ? 獣の匂いじゃないか」
「うん。まぁそうだな。うちはマメにシャンプーはするようにしてるけど」
「お前の猫がくさいって言ってるんじゃないよ。オレも猫は好きだしね。そうじゃなくてさ」
「うん。何だよ」

「トキソプラズマって知ってる?」
「ああ。猫に居るかもしれない寄生虫だろ」
「うん」
「それが?」
「トキソプラズマってさ、伝染るんだよ。例えばネズミに」
「ああ」
「トキソプラズマに感染したネズミは、猫から逃げなくなるんだ」
「へえ?」
「ネズミって、普通は猫の気配がしたら逃げるだろう? だけど、トキソプラズマに感染したネズミは、猫から逃げなくなる」
「どうしてだよ。逃げなきゃ死ぬだろ?」
「うん。捕まって死ぬ。だから普通のネズミは猫の匂いを嗅ぐと逃げる。だけどトキソプラズマネズミは、基本的に無気力で動きが緩慢で、猫の匂いをいい匂いだと思うようになる。だから逃げ遅れるんだ」
「そうなのか?」
「うん。猫の尿の匂いに幸福を感じることが解っているそうだ。トキソプラズマに感染したネズミは、そうして、他の猫に食べられやすくなる」
「へえ」
「自分が猫から猫に伝染るために、トキソプラズマが、猫を怖れないようにネズミを操ってるんだ。自分の目的のために。そして、トキソプラズマは、人間にも伝染るんだ」

「ああ、人にも伝染るのは聞いたことがある。でも命に別状はないんだろ?」
「うん。すぐ死に直結するわけじゃない。ただ、猫の匂いを『獣臭い』じゃなくて『いい匂い』と思いながら、頻繁に猫に顔を埋めて吸わないと我慢が出来ないような人をみると、なんだか操られているように、オレには見えるんだ」
「ああ、なるほどなあ。まあでも、実際どうなのかは、わからないんだろ?」
「うん。オレは、猫のことは詳しくないから、よくわからない。でも、オレはね、オレの周りの、お前以外の人間が、トキソプラズマみたいに見えてしまうことが、あるんだよ」
「は?」

「会社の部下も。取引先も。銀行の奴らも。会合で名刺を投げ合っただけの胡散臭い連中も。綺麗に着飾って若さを餌にする女も。若さには知性で勝てると思ってる面倒な年増も。
 みんなオレを『カネを持っている奴』という目で見る。そしてその次に、そのカネを、どうにか自分のものにしようと、オレを操ろうとするんだ。
 口でどんなことを言う奴らも、オレがカネを流せば機嫌が良くなるし、出さないと怒ったり悲しんだり鼻白んだりする。
 そういう『不当に出し渋られた被害者』の顔を貼り付けながら、『自分に何も寄越さないお前が悪い』というサインだけを、オレに浴びせて、カネや案件や愛情を、自分に寄越すように操ろうとするんだ」

「仕事、大変なのか。ストレス溜まってんじゃないか?」
「会社は今のところうまく行ってる。今のところはね。ありがとう。こういうときにまず、本当に普通に心配してくれるのも、お前くらいだよ。こういうことをオレがいうと、返ってくる反応は、怒るか、自分だけは違うとすり寄るか、解る解ると上っ面で笑うかの、大体三つだ」
「そういうもんか? まあでも、仕事関係の付き合いだとそんなもんかもなぁ」
「学生時代の友達も、お前以外はみんなそうなったよ。
 オレが出すビールと豚キムチをさ、『こんなのうちでも食ってる』と最初から喜ばないのが4割。食べた後『でも高いワインも出てくるよね?』と言葉で、或いは無言で圧をかけるのが6割ってところだ。
 オレはただ、たまには昔のように、過ごしたいだけなのに」

「お前、はやく結婚した方がいいよ」
「ん?」
「ずっと独りで居るから、疲れてるんだよ。安らげる家庭があったほうがいい。なんなら、うちのカミさんに言って、いい子紹介してもらうから」
「…」
「ん? どうした?」
「いや。ビール。もう少し呑めるだろ? 取ってくる」
「ああ、ありがとう。すまんな」

「いたんだ」
「いたって?」
「彼女。そう呼んでもいい女が、ひとりだけ」
「そうなのか。知らなかったよ。水くさいな」
「知らないのはお前だけじゃないよ。誰にも言わなかったから」
「どうしてだよ」
「彼女が嫌がったんだ」
「へえ?」
「自分がパートナーだと周知されるのを嫌がった女は、彼女だけだ。ただ一緒に居られれば、それだけでいいと言ってた」

「こう言っちゃなんだが、今時珍しいな。既婚者だったとか?」
「オレは既婚者と彼氏持ちは部屋には入れない。面倒くさいよ不倫なんて。でさ、今まで、オレにせっつくのを我慢する子は何人か居たけど、言わないでくれと止めた子は彼女が初めてだった。どうしてなのか訊いても、あなたが好きだからとしか言わなかった。他の女と何か違うと思ったけど、何が違うのか解らなかった。何も欲しがらない子だったよ」
「へえ」

「どこかに食事に連れてっても、服を買ってやっても、オレからもらったということには喜んでも、その値段には喜ばかなかった。旅先で一緒に映った写真なんかの方を、いつまでもずっと喜んでた」
「いい子じゃないか」
「うん。彼女といるときは、他の奴らの顔を、忘れられた。彼女にだけは、幾ら使っても惜しくないような気になれたから、不思議なもんだと思うよ。ずっと一緒に居たいと思うようになった」
「居ればいいじゃないか。よかったな。はやく結婚しろよ」

「彼女は、少し陰のある子でね。時々、何か不安そうにしているというか、思い詰めたような顔をしていることがあった」
「何かあったのか」
「何か悩みがあるんだろうとは思ってたけど、彼女は何も話してくれなかった。オレはさ、頼ってくれれば、なんとかしてやりたかったよ。だから何度か訊いたんだけど、逆に心配をかけたことを謝るような始末でね。オレは彼女を、無理して明るく振る舞わせたいわけじゃなかったから、話してくるまで待とうと思ってたんだ」
「うん」

「そうしてたら、ここのマンションの玄関にさ、オレを訪ねて男が一人やってきたんだ」
「へえ?」
「モニターで一目見ただけで、まともな男じゃないことはすぐ解った。老けて見えたのは、実年齢だけじゃなくて、身なりのせいもあったと思う。髪はボサボサで、服も何年も前に買ったようなヨレヨレのシャツとジーンズでさ。靴までは見えなかったけど、何よりも、目がどこか濁ってて、口元だけが薄く笑ってた」
「カネがあるってのも大変だな。そんなのがいきなり家にくるとか」
「そいつは、彼女の父親だと名乗った」

「え?」
「どうして彼女の相手がオレだと知ったのかはわからない。誰にも話さないようにはしてたけど、厳密に隠そうとしてたわけでもなかったし、オレは公表してもいいとすら思ってたくらいだから、どこかで話は漏れて伝わってたのかも知れない。
 今から降りていくからエントランスルームで話そうと言ったら、人に聞かれたくない話もあるがいいかと、やはり薄く笑いながら言ってきた」

「それで?」
「部屋に入れるしかなかった。そいつは、薄汚れたスニーカーを脱ぎ散らかして、今お前が座ってる場所にいきなり腰を下ろしたかと思うと、じろじろと部屋の中を眺め回してた」
「ふむ」
「随分羽振りが良さそうですねぇ、というのが、最初の言葉だった。その後も、どうでもいい追従を並べていた。オレの知る胡散臭い奴らを数人まとめて煮詰めたような顔だった。早く本題に入ってくれと言ったら、濁った目で、薄く笑ったまま、喋り始めた」
「…それで?」

「借金があるんだと言った。なかなか元本が減らないと。それで」
「うん」
「娘にもこれまで、随分助けてもらったと、そう言っていた」
「彼女にか?」
「うん。あれは本当に親孝行な娘だと、ニヤニヤ笑いながら言っていた。『親孝行な娘』という言葉を、あれほど気持ち悪い響きで聞いたのは、生まれて初めてだった」
「借金は、幾らだって?」
「1000万。こんなナリの男がニヤついたままでいられる額ではないはずだろ? どうしてそんな額に膨らんだのかはわからない。だけど、その父親と金貸しとの間で、すでに彼女を何かの形で売る話がまとまりかけていた」
「…」
「これまで何度か、そうやって、彼女は金に換えられていたような話しぶりだった。キャバクラ程度で収まった話なら、彼女はもう少し明るい子だったろう」
「…」
「『娘にね、ちょっと何かの作品に出て、それから働いてもらえればね、それで借金をなしにしてくれる、って、あちらはそう言ってくれてまして。父親思いの綺麗な娘がいるってのは本当に有り難いもんですねぇ。いや娘には申し訳ないと思ってますよ。私もねぇ、そんなことはさせたくないです。おたくにもねぇ、ご迷惑がかかるでしょう? 自分の彼女が、そんなに金に困っているのに、何もしてやらないのか、などと、あらぬ噂が立ちでもしたらと、申し訳なくて。脅しだなんてとんでもない。私はただただ、申し訳ないだけなんです』
 人間ってさ、怒りが強すぎると、頭から血の気が引くのが、自分でわかるんだな」

「…ろくでもないな」
「そいつは、ポケットから取り出したくしゃくしゃの紙に、電話番号を書いて、それを置いて帰っていった」
「彼女には」
「すぐ来てもらって、訊いたよ。もう悠長に待っていられる状況じゃなかった。そいつがきたことを話した途端、彼女の顔がさっと青ざめた。それを見て、奴の話がすべて本当だとわかった」
「…そうか」

「最初は、家の工場が倒産したことが切欠だったんだそうだ。それまでは、家族思いの真面目な父親だったし、残った借金を返すために、彼女が初めて水商売で働くようになった時も、本当に父は辛そうだったんだと、彼女は俯きながらそう言った。とても信じられなかったが、彼女がそう言うんならそうだったんだろう。それはもうどちらでもいい。
 そいつは、そういう娘の姿を見るのがつらかったのか、自分の腑甲斐なさから逃げたかったのか、酒に溺れるようになった。そこから先は、街の裏通りにでも行けば、ごろごろ転がってる、さして珍しくもない話だ。
 でも彼女は、さっきも言ったように、すごくいい子だからさ、そういう彼女を愛する男も、これまで何人か居たようなんだ。でも、話が具体的に進み始めると、必ずやつが、その男に金の無心をしに現れた。彼女がどんなに逃げても、身を隠しても、必ず探し出して現れたそうだ」
「…」
「父に食い潰されて目の前から消えるか、そうなる前に彼女に別れを切り出すかの、どちらかになったと、彼女はそう言った」

「接見禁止の命令は、親子だとかなり難しくなるんだっけか」
「彼女もオレにそう答えてた。奴は決して見える暴力は振るわないしな。それに、そういう命令は、裁判所の権威なんか全然気にしないような奴には、効果が薄くなるのかもしれない。司法が動いてくれる頃には、彼女は何度もボロボロになる」
「…つらいな」
「うん。彼女も、そう言った」

「それでも一応、警察に相談した方が、よくはないか?」
「オレもそう言ったよ。ついて行ってやる、オレが守ると、何度も言った。オレにはカネはそこそこあるし、コネも辿ればそれなりに無くはない。どんなことでもするつもりだった。だけど、彼女は疲れ果ててた。やつは、借金を重ねる度に、どんどん筋の良くないところから借りる。どんなに逃げても現れる。もう彼女は、限界だったんだ」
「…」

「オレの声が届かないのが辛かったよ。こんなときですら、彼女は何もオレに求めない。ただただ謝るんだ。私なんかと出会ったばかりに、って。
 オレは初めて彼女に怒った。オレは彼女に『してやってた』んじゃない。オレが彼女にそうしたいんだ。どんなことでもする。オレのカネに、人脈に、そして国に、頼むから守られてくれと、怒鳴るようにして訴えた。部屋の防音がしっかりしてると、こういうとき便利だよ」

「俺にも何か出来ることがあるなら、言ってくれ」
「ありがとう。お前なら、そう言ってくれるだろうと思ったよ。オレからお前に頼みたいことが、一つだけある。今日は、本当はその話をしたくてお前を呼んだんだ。けどそれはもう少し後で話す」
「うん」

「彼女は。
 オレに初めて、お願いがあるのと、言ったんだ。
 解ってくれた。助けてやれる。そう思った。嬉しかったよ」
「ああ」
「でもね。彼女は」
「…ああ」
「彼女はね」
「……お前。何があった」

「『私を死なせてください』と、そう言った」

「…お前」
「彼女は、今までオレに何も望まなかった。初めて彼女が、オレに望んだことが、自分を死なせてもらうことだった。彼女は真っ白い静かな顔で、オレが何を言っても構わずに、ぽつぽつと言い続けたから、オレはもう途中から黙って聞くしかなくなった」
「…おい」
「自分が生きていたら同じことが何度も起る。ずっと起る。オレを不幸にする。自分がオレを不幸にする。それにもう耐えられない。何度も姿を消そうと思った。死のうともした。でもどうしてもできなかった。幸せだった。一生分の幸せをもらった。その幸せでどうしても気持ちが鈍る。だから」

「お前、何したんだ。悪いがちょっと部屋を見せてもらうぞ」
「頼む。話はもう少しで終わる。もう少しだけ聞いてくれ」
「……」
「……」
「………ビール、冷蔵庫からもらうぞ」
「ああ。好きなだけ呑んでくれ。ありがとう」
「…それで?」

「隣の部屋に、ロフトがあるんだ。普段は使ってなくて、物置になってるんだけどな。
 彼女は、今まで何度かこのロフトの柵に、ベルトを掛けたことがあると言った。首を突っ込んで、それでもどうしても、蹴り出すことができなかったと」
「…」
「だから」
「…もういい。わかったから。もういい」

「どうしてオレにお前を殺させるんだ、それはオレを不幸にするとは思わないのかと、絶叫した。泣いてたと思う。
 だけど、彼女は。どうしてなんだろう。
 泣いてなかった。結局最後まで泣かなかった。
 『他の誰かのせいで死ぬくらいなら、あなたがいいんです。
  あなたじゃなきゃいやなんです。ごめんなさい』って。
 笑ったんだ」

「それを見たらさ、ああ、死なせてやらなきゃ、って、思ったんだ。
 そうしてやらなきゃ。嫌だけど辛いけど苦しいけどそうしてやらなきゃ、って、思ったんだ。そうとしか、思えなかったんだ」
「…」
「他に何も考えられなかった。彼女がちゃんと死ねるまで、ついててやらなきゃって」

「…ばかやろう」
「うん」
「なぜもっと早く呼ばなかったんだ」
「うん」
「何か他に、やりようが、あったろう」
「なかった」
「あ?」
「きっと、他の方法なんて、なかった」
「ああ?」
「何度時間をあのときに戻しても、オレは、同じようにしか思えない気がする。オレは多分、受け入れたんだ。彼女に、操られることを。責任を転嫁してるんじゃないよ。彼女になら、操られても、構わないと、どこかで多分そう思ったんだ。だから、他の方法なんて、きっとなかったんだ」

「そんな訳あるか! 何かあったはずだ! なぜもっと早く俺に言わなかった! そりゃお前と違って、俺にはカネもコネも力もないがな、それでもお前一人よりは何か、なあ!」
「うん。お前には本当に、感謝してるよ。お前だけが、オレの友達だった。本当に、感謝してるんだ。だから、呼んだんだ」
「ああ!?」
「お前に、一つだけ頼みがあると、言っただろう?」
「……何だ」

「彼女の遺体は、司法解剖に回されることになるんだろう? その後の彼女の葬儀を、お前に頼みたい。あの父親には、彼女を渡したくない。だけど、オレはもうそうしてやれない。だからお前に頼みたいんだ。現金はそこのトランク幾つかに入る分は引き出してある。使ってくれ。頼む。何とかしてお前が彼女を弔ってくれ。
 お前も要るだけ使っていい。余ったら残りは日本赤十字にでも寄付してくれないか。遺族面するかもしれないあの男に渡るカネは一円でも減らしたいんだ。
 そうしてくれるなら出頭する。お前に手柄、立てさせてやるよ」

「友達を、逮捕して、手柄だと、喜べるわけ、ないだろ、バカヤロウが」
「お前の家に遊びには、当分いけそうにない。すまないな」

「なぜ俺にこんなことさせるんだ。どうして俺なんだ。幾ら仕事で慣れてるだろうからって、つらくないとでも思ってるのか。どうして」
「ごめんな。こんな部屋に住んでても、どれだけカネ持ってても、誰をここに連れてこれても、オレには、お前しか、頼める奴が、居ないんだ」
「…」
「お前と呑む安酒がいちばん美味かったよ。頼む」

「ああ。そうか…」
「ん?」
「なるほどな。おまえの言ってることが、少し解った気がする」
「…そうか」
「俺はカミさんを守らなきゃいけない。だから、絶対に上手く行く保証まではしてやれない。だけど、そうしてやる。きっとそのとおりにしてやる。そしてこれからもずっと、お前を待っててやるから」
「ありがとう。これでもう何も思い残すことはない。お前なら、きっとそう言ってくれると信じてたよ。本当にありがとう」

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