日テレ『24時間テレビ』は、新興宗教である

 日本テレビの24時間テレビは、新興宗教である。

 教義は「愛は地球を救う」である。
 今年は何故か「愛は地球を救うのか?」などとブレていたようだが、来年以降は、番組関係者は布教者の自覚と誇りを持って「救う」と言い切っていただきたいところである。
「来年以降? 来年もやるのあの番組?」などと思った方もおられるだろうか。
 やるに決まっているだろう。「崇高な目的のために、心ない迫害に負けずに続けなければならない」てなもんである。どんなに悪し様に言われても、僅か1日でお布施が数億円集まるのだ。やめるわけがない。

 私の家の隣にはデイケア施設がある。お向かいにある病院が運営している。この施設は送迎車を数台活用しているが、そのうちの1台の車体には、24時間テレビのマークが描かれている。毎日、歩行が困難な高齢者の送迎に街中を走り回っている。
 お布施は、掲げられた目的通りの使われ方をしている。
 よって、番組に一定の意義はあるのだ。
「局員が募金の一部を着服した」のはあくまでも突発的な事件、そのとき限りの事例に違いないのであるし、これまでは毎年募金総額は、ほぼ例外なく1億円強だったのに、明朗会計を徹底したらしい今年に限っていきなり4億円強に跳ね上がったのは、偶々に決まっているのである。今年は、災害続きの景気の悪さにも拘わらず、温かい支援が何故か例年の4倍集まってしまっただけの話である。

 チャリティマラソン。
 あれは、一種の戒律、あるいは儀式である。

 始まりは32年前。第15回のときである。
 当時、間寛平がフルマラソンを素人離れしたタイムで走っていたことから、持ち上がった企画だった。
 元々は、「間寛平がマラソンを得意としていたから、マラソンの企画を立ち上げた」のであって、「マラソンの企画がまずあって、ランナーとして間寛平に白羽の矢を立てた」のではない。
「マラソン」が目的というより、「芸人が常人離れした偉業を達成する」が目的の企画だったのだ。

 間寛平は100キロ以上を走り抜くという偉業を3回やり遂げた。
 それは、当時すでに立派なマラソンランナーだった彼だからこそ出来たことのはずだった。
 そして彼は3回目で「来年以降はもう100キロマラソンは走らない」と宣言した。
 だから本来なら、そこでマラソン企画は、終わりにして然るべきだったのだ。

 しかし、その翌年、24時間テレビは、「別の芸能人に、同じような距離を走らせる」という選択をした。しかも回を重ねるに従って、普段マラソンなどやったことがないような人ばかり選出するようになっていく。
「走った間寛平」を讃えていたのを、「走るという行為そのもの」を讃える方向にシフトしたわけである。
 この前者のマラソンと後者のマラソンでは、「何故走るのか」が、おそらくどこか違う。同じ部分もあるだろうが、「自発的に実行した者」と「課されて実行した者」との間に多少なりと乖離があるはずだ。

 多分、チャリティマラソンが戒律化した瞬間があるとすれば、この時なのだと思う。

 近年ではもう「なぜ24時間テレビでは、誰かが24時間ずっと走りっぱなしなのか」を、誰も解らなくなっていると思う。
 制作関係者や訳知り顔の方々は言うだろう。「視聴率がとれるから走らせるんだよ」と。そんなことは解っている。信者獲得が順調なようで結構な話だ。私が言いたいのは、そういうことではなく、「マラソン以外の企画で視聴率をとろうという気概と力を発揮できないのは何故なのか」そして「何故、24時間テレビでマラソンをやると、必ず視聴率がとれてしまうのか」ということだ。

「24時間テレビでは、24時間マラソンをやるもの」
「24時間マラソンをやらない24時間テレビは、何か物足りない」
「何故やるのかはわからないけど、今までずっとやってきたことだから、やっぱりランナーを見ると気持ちが高揚する」
 実際こんなことを感じている視聴者は大勢居るのだろうと思う。
 イスラム教徒が、何故豚肉を食べてはいけないのか、その正確な理由はもはや解らなくなってしまっているにも拘わらず、豚肉を食べようとすると気持ちが落ち着かなくなるのと、何ら変わりが無い。

 チャリティマラソンは、ある種の戒律である。
「『24時間テレビ』では、1人ないしは数人のランナーに24時間マラソンをさせ、その他の人々はこれを、応援せねばならない」と、「決まっている」から行う。きっともう、それだけの話なのだ。

 だから、「マラソンはもうやめたらどうか」「何か違うものにしたらどうか」などと幾ら言い募ったところで、コースの変更はあっても、中止はあり得ないのだ。
 猛暑でも、台風上陸の恐れがあっても、体力に自信が無くても、いやむしろだからこそ、「ランナーは数多の苦痛や苦難を乗り越えやり遂げました」という形を作ることを、今後も絶対にやめることはないのだろう。
 存在意義を疑うことが許されない戒律になってしまったからである。

 日テレの『24時間テレビ』は、新興宗教である。
 教義に戒律を付随させ、それらを流布する。受け止めた人々から広く布施を募る。それを衆生に還元する。すでに体裁は整っていると言える。無いのは明確な自覚だけである。
 私は、社会に明確な悪影響を及ぼさない限りは、宗教というものの存在意義を容認する考えの持ち主なので、今のところ『24時間テレビ』に関しては、その教義に反しないよう活動していただきたいものだと思っている。
 まあ、伝統新興問わず、規模の大きくなった宗教組織は、創始者の崇高な理念を、後継の卑俗な凡人が腐敗させるというのが世の常であるが、『24時間テレビ』はそういう意味でも、やはり新興宗教としての名に恥じぬありようであろうか。
 第1回のエンディングで、大橋巨泉は言った。
「こんなことは本来、政治家の仕事であって、テレビがやることではない」と。
 数億円のお布施を前に、番組関係者はその言葉をどう受け止めるのだろう。
 願わくば、布教者としての自覚と誇りを忘れず、自らを律していただきたいものである。

 私は、いわゆる町内会で集めている赤い羽根募金には募金をする。
 地元に献血カーがやってきたら、極力献血しに行く。
 私に出来ることなどこの程度だ。
 各々、信じたいものを信じ、選びたいものを選んで、できることをすればいい。結局は、それだけのことなのであろう。

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