薬と毒
その夜、女はどばどばと涙と鼻水を流しながら、男と言い争っていた。
男にとっては「理屈に合わない要求」が、女にとっては「耐えがたい苦痛」が、積み重なった末の、最後の一つが引金となった結果だった。
暮らし始めて間もなく、男は女に、薬と毒の話をしたことがあった。
「薬と毒は、別種の何かではない。ある物質が人の身体に入ったとき、プラスに作用すれば薬、マイナスに作用すれば毒と呼ばれる。プラスになるかマイナスになるかは、量による。閾値の高い低いがあるだけだ。麻薬は時に鎮痛薬となり、水すら過ぎれば害となる」
そして男は、それは人間の関係も似たようなものだと、穏やかに続けた。
「幸せなことも、苦しいことも、これから必ず起る。違う人間が一緒に居るためには、これを増やしたり減らしたりはできても、最初から避けることはできない。だったら、トータルでプラスであることを二人で望めば、きっとどんなときも一緒に居られる」
薬が毒に変わらなければ、きっと共に居られる。男はそう言った。
先に、幸せが訪れた。
『男の時間』でも『女の時間』でもない、『二人の時間』が増えていく。
たとえば二人の間で「ダスキン」という単語がでたらまずは掃除用具メーカーとは違うもので、「あの日の城」という単語で幾らでも思い出に会話が弾み、「煙草」といえば男の好む銘柄のことで、「ピザ」といえば女の好む薄生地のことだった。
相手の安らかな寝顔をひっそりと眺めることで得られる温かさを、自分だけの密かな愉しみだと、二人ともが思っていたことが、互いに知れたのは、しばらく経ってからのことだった。
些細な一つ一つが、幸福の種だった。
次に、苦しみが訪れた。
男は、人好きのする質だった。
柔和なのは外側だけなのに、職場でもプライベートでも、男を頼り慕う人は不思議と現れた。
その「人」には、異性も含まれることがあった。
そして男は、他人と関係を築き育てるとき、性別は考慮しなかった。
男は、頭の回転が速く、べらぼうに弁が立った。
男は女と出会った頃にはすでに、理論武装を終えていた節があった。
女は、そんな男に、それでも女性の影に対する苦しみを、何度も訴えた。
女は、頭に血が上ると、舌鋒が鋭くなるところがあった。
男は、そんな女に、しばしば手を焼いた。
男はこういうとき、「我慢しているのが自分だけだとは思わないでくれ」とよく口にした。
男は、日頃、意思は言葉にしても、感情を露わにすることは少なかった。
それは、男の矜恃の一つだった。
しかしそのために、女は、男の我慢が何であるのかを、先に悟ることができなかった。
パワーゲームのカードとして消費されることへの女の激情と、それに対する男のいらだちが、火に油を注いだ。
平行線のまま長い時間が経過し、二人ともに疲れ始めた。
いつしか、諍いそのものを、避けるようになった。
火薬庫で一本ずつマッチをすっていくような日々だった。
その夜、女は激しく泣きながら男に自分の苦しみを訴えていた。
どれほどの言葉と時間を重ねたろう。
どうしても妥協点を作れない。
何もかも枯れ果てた顔で、初めて口にしたのは、女の方だった。
「もう別れる」
それを聞いた男に、目に見えるほどの動揺はなかった。
ただ、承諾しようとしなかった。
「このひとつで、すべて失うのか」
「そのひとつが、私には耐えられないの」
「幸せだったすべてが、そうでなかったことになるのか」
「忘れられないの。幸せなはずの時間を過ごしてても」
「どうしても別れたいのか」
「そうしないとずっと苦しいの」
「別れたほうが幸せか」
「貴方が、私じゃない人のほうがいいから、私が何を言ってもこうなるんでしょう。違う人と一緒に居ればいいじゃない」
「それを決めるのはお前ではない。もう一度訊くぞ。
別れた方が幸せなのか」
「くどい」
男は、苦い顔で、女に言った。
「そうか。わかった。
私は今からお前の私物を梱包する。いくつか取りこぼすかも知れないがそれは諦めてくれ。必要な物は今選んでくれ。
ここは元々私の部屋だから、選び終わったら、この部屋を出てくれ。
必要な当座の金は出す。手持ちはあるだけ持って行っていいからそれで何とかしてくれ。返す必要はない。
どこかに落ち着いたら、住所を私に知らせてくれ。お前の私物を送る。
荷物が届いたら一度電話をくれ。
その電話を切ったら、お互いの連絡先をすべて消去しよう」
水が流れるように男が言うのを、女は、まだ息を喘がせ、怒りに燃え上がった目で宙を凝視したまま、黙ってそれを聞いていた。
「この部屋の鍵は、置いていってくれ。それでいいな?」
男は、背を向け、隣室に入っていった。
貴方の部屋で使ってたモノなんて要らない。全部捨てればいい。
二度と使わない鍵なんて言われなくても持ってなんかいかない。
茶飲み話まで嫌だなんて言ってないのにはねつけて、いい顔したり都合の良いとこだけ摘まんだり健気な振りして隙あらばと狙ったりするような女と関わるのがそんなに愉しいのなら、私が居なくなってから好きなだけそうすればいい。
私は都合の良い人形じゃない。
女の頭の中を、数々の罵倒が渦巻いた。
それをそのまま扉越しに投げつけて出て行けばそれで終わる。
心が守られ、プライドが保たれ、安息が訪れる。
女はソファから立ち上がろうとした。
その時間が長かったのか短かったのかはわからない。
男が、隣室から入ってきた音がした。
死んでしまえばいいとすら思った男がそこにいる。
女は口を開いた。
男は、怒りでも悲哀でも懇願でも侮蔑でも愉悦でも歓喜でもない、静かな表情で、ソファに座っている女の傍に膝をつくと、
「うん。私もだよ。きっとそうだと思っていた。
私は、それを、思い出してくれるのを、ずっと待っていた」
と、ぽつりと、言った。
「一緒に居よう。いつでもそこに戻ればいい。
信じることが、今は出来なくなっていても」
女は、呆然としながら、ぽつぽつと届く男の言葉を聞いていた。
なぜそれを選んでしまったのか、選んで何を得たのか、そのために何を喪ったのか、わからなかった。自分が選んだという自覚すら遠かった。
しかし、女がそのとき感じたものは、確かにひとつの「幸福」だった。
※後書きのようなもの
個人的には、間違うより、正しいほうがいいし、正しくあろうとする強さは綺麗だし必要だと思っています。
ただ、人の間違いは、「知らなかったせいで引き起こすもの」よりも「知って尚避けられないもの」のほうが、はるかに多い気もしていて、そのとき心を慰めるのは、道徳とは別の何かではないか、とも、やはり個人的には思っているのです。指針にはなるので必要ですけど。
ところで、筆力不足のせいで、昔校内の文芸部に片足だけ突っ込んでた頃から私の自作を幾つか読んだ人の感想は大体「脳内の妄想を垂れ流してる」か「実体験をそのまま書いてる」のどちらかになりがちなので付け加えますと、実際はどっちかだけということはあんまりなくて、フィクションベースには現実の何かを混ぜてあるし、ノンフィクションベースには虚構も混ぜてあります。ブレンド比率は随時変動します。
完全オリジナルフィクションで書ける人凄いと思う。
要は、嘘と真をどこにでも平気で混ぜ込んで書く奴です。実際は若さを眩しがるいい歳の平凡な人間。
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