(非)混沌東京 a.k.a 永年芸術祭
近ごろ(ここ10年くらい?)盛り上がっている地方の芸術祭やアートイベントに自分が全然行っていない理由を考えた。
すでに結構みんな行っているからわざわざ自分が行かなくても良さそうとか、単にお金と時間がないとか、自分にとって「自然」単体が最もアートとして完成されているものだからとか、いろいろ思い当たりつつも、ひとつにはやっぱり「東京者」としての強烈な自我とコンプレックスが関係しているだろうと思った。
東京というのははっきり言って何もない場所である。無である。文化力では関西の豊穣さに到底敵わないし、歴史の浅さではアメリカとそう変わらないし、ある地方が必ず持っている「色」みたいなものもない。そのくせ時間の流れ方だけがやたらと早く、「近代」を纏った空気全体が我々の神経をすり減らしてくる。
特定の地方にアイデンティティを持つ人や、あるいは東京から別の場所に移り住む知り合いを羨ましいと思わない日はない。持つべきなにかを持っていないような感覚、刻まれるべきなにかが刻まれていないような感覚はつねにある。それでも半ば自暴自棄のようにして、俺はこのクソみたいな東京と共に沈んでいってやろうと決めている。
『呪術廻戦』に東京がよく出てくるのは、ここが人の恨みつらみが集まる場所だからだ。言うなれば「人の感情」を展示物として永遠に陳列し続ける、四六時中が趣味の悪い芸術祭のようなものなのだ。ならそこがどんなに虚空でも、限界まで目を凝らしてみるべきだと思う。