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俺のインターネットのやりかたが分からなくなっている
という件で文章を書こうと思ったが、なんかもうそれさえ匙を投げたくなるくらいには、自分が誰に向けてこれを書いているのかさっぱり分からなくなっている。とはいっても「読者の顔が見えない」のではない。「さまざまな読者の顔が見えすぎる」ためにつらいのだ。
だとしてもそれを他でもない読者に向けて言うのって反則じゃないか?と思わないでもないが、そういうまともな社会性を求めてくるんなら今すぐ俺のフォローを外せばいい。やっていることの規模は1万倍くらい違えど、最近東浩紀さんが「俺やばい奴だから」とぼやいている気持ちはとてもよく分かる。良識ある市民だと思って近づいて来られても困る。
かつてAmebaブログを中心にインターネットを始めた2010年ごろ、俺にとってネットはリアルから逃げて自由になれる場所で、それが楽しかった。けれども2024年現在、ネットはリアルと地続きの空間になっていて、端的にいうとそこに「自由」なんてものはなくなった。
ネットとリアルを地続きにしてきたのは自分の判断だ。自分のTwitterアカウントのF/Fにはわりかし多様なクラスタ、多様な界隈の人がいて、僕はそれを好ましいことだと思っているし意図的にそうしてきたのだけど(誤配のためのハブになるというのはそういうことだから)、だからこそ気を遣うべき要素がものすごく増えた。リアルの知り合いから業界人系の人までいろんな人に見られているために、本来あったはずの自分の匿名性が限りなくゼロになる感覚。より卑近な言い方をすれば、たとえば「界隈Aの愚痴を界隈Bの人に向けて言う」みたいなことはできないわけだ。界隈Aから界隈Zまでの人がこっちの発言を見てるのだから。
まあでも「パブリック」というのはそういうことでしょう、と思われるかもしれない。誰からも見られるし批判される可能性があるからこそ、自分の発言に責任を持つことができるのだと。それはもちろんそうである。そうであるが、しかしそれって単にしんどいってことじゃない? SNSには啓蒙的な役割もあるとはいえ、楽しくもなくて自由もないならもうやれないよ、こっちだってそんなに余裕のある人生を送ってるわけじゃないから、という気分には、普通に、なる。
さて、ここまでは今現在の俺の苛立ちをとりあえず言語化してみただけのパートにすぎない。この次にはじゃあどうしたらインターネットをハッピーに使えるかとか、俺が公共性という概念をどう捉えていてどんな信条でものを発信しているかとか、多少なりとも生産的な内容が続けばいいと思う。思うけど、まあ思ったからといって実現するわけではない。だいたいそんなの言葉にしたところで仕方がない。粛々と行動していくしかない。しかし「粛々と」というこの形用がもうすでにつらい。だって粛々とやるもんじゃないだろインターネットって。