認知バイアスを克服するアイデア
私にとって自己認知を高める過程は、認知バイアスをどのように克服するかが重要でした。今回の投稿では、その中で「思いやり」、「努力」、「証拠」という職場や学校、家庭でとても良く耳にすると思われる3つの単語について私の気づきを紹介することで、皆さんの気づきのきっかけになればと考えています。様々な言葉の持つ意味を深く考えてみると、今の時代にはそぐわない解釈や、他の人と理解が違うかもしれない部分などに気が付くことがあります。重要なのは、そのようなギャップを認識し、豊富な解釈によって自分自身を見つめなおすことです。
「思いやり」を考える
皆さんは「己の欲せざる所は人に施す勿れ」という孔子の言葉を聞いたことがあるでしょうか?私は中学生の時に習いました。キリスト教には「あなたが人にしてもらいたいことを相手にもしなさい」という似たような表現があるそうです。これらは一般に黄金律と呼ばれています。これらの言葉がどのように認知バイアスに結びつくかを考えてみましょう。
例えば、私は日本人としては珍しく、エビやカニの味が苦手でほとんど食べませんが、だからといって、他の人も同じに違いないと考えるのは不合理だと思います。男女間や人種間だけではなく、一人ひとりの考え方が違うという理解は、今や非常に広く浸透しています。しかし、これらの言葉が示唆するのは、根底に「人はみな同じ」という考え方が垣間見えることです。とても古い言葉ですのでそれも仕方のないことかもしれません。
ちなみに、私は孔子のこの言葉を学校で「恕」つまり「思いやり」のことと学びました。もし、これが「思いやり」の定義だとしたら、その効果は限定的と言わざるを得ません。確かに相手が自分と同じ考えを持っている場合もありますが、そうでない可能性を否定することは危険です。
また、「思いやり」には自己犠牲を伴うという考え方もあるようです。しかし、自分のために犠牲になってくれる人を、すべての人が快く思ってくれるわけではありません。もし、私自身が「思いやり」が必要だと指摘されたときに、その意図が「自己犠牲をしろ」というものだったとしたら、それはとても残念なことだと思います。
このように、「思いやり」から連想される考え方の中には、むしろ危険なものがあることに気づかされます。特に、宗教観や学校教育に根差したこのような知識は、お互いに異なる認識かもしれないのに 「常識」と呼ばれるようなものを生み出し、意見の相違を生むバイアスになることがあるのです。
「努力」を考える
「努力」とは、自分の能力を引き上げる行為です。職場でもっと「努力」が必要だとフィードバックを受けたり、子供の頃に親や先生からもっと「努力」して勉強しなさいと言われた経験のある方もいるかもしれません。「頑張れ」という言葉を同じ意味で使われる人もいると思います。
「努力」や「頑張る」には主に、ベストを尽くすという意味とハードワークという意味があるようですが、この似て非なる二つの意味は、バイアスを生じさせる原因となります。職場のハードワークは、長時間労働の要因として挙げられる業務量過多や過大なノルマといった問題の温床となる危険性があります。また、「努力」によるうつ病などの危険性のような議論もあります。むしろ職場では、組織目標に向けた仲間同士の「協力」こそが求められており、だからこそ、仲間同士の絆を感情レベルで強化できる感情知能の必要性が認識されているのです。
一人ひとりがベストを尽くすことは必要ですが、十分ではありません。このように、職場に限らず、様々な場面で、そもそも最適ではない言葉を使うだけでなく、さらに違う解釈をしてしまうと、物事がうまくいかないだけでなく、精神的にも辛い思いをすることになります。
「証拠」を考える
「証拠」は有罪が無罪かを決める裁判の重要な材料なので、「証拠」= 「真実」「正義」という感覚を持つ人もいるかもしれません。昨今のビジネスでは、データがこの「証拠」としての地位を確立しつつある職場で働いている方もいらっしゃるのではないでしょうか。「客観的データ」、「エビデンス」などの言葉は溢れ、データサイエンティストの人材不足は国のレベルで議論されるほどになりました。このような時代の流れだからこそ、改めて「証拠」や「データ」の本質を認識することが重要だと考えています。
明らかに、裁判に冤罪があるように、「証拠」を真実や正義と同義と捉えることは非常に危険です。そもそも「証拠」とは「観測」の結果に過ぎないからです。「観測」には、観測するための機材や方法論など非常に複雑なプロセスを伴い、観測方法が異なれば、同じ事象でも異なる結果が得られ、矛盾した「証拠」になることさえあります。「データ」も同様です。本質的に観測方法に依存するため、常に主観的であり、その意味において「客観的データ」というものは存在しないのです。
したがって「証拠」や「データ」に強い正義感を感じてしまうと、バイアスとして機能することがあります。一つ補足をすれば、世界で広く共通認識として信じられているデータのことを「客観的データ」と呼ぶことはその限りではありません。例えば、地球は温暖化に向かっているというデータは「客観的データ」だと信じられています。単なる一観測に過ぎない知識と、広く合意された知識との違いを見極めることが重要です。いずれにしても、裁判のような社会的に認知されたプロセスと関連するバイアスは非常に強力です。
この3つの例に共通するのは、人間一人ひとりは複雑であり、集団になると多様であるということです。そして、認知バイアスを克服するコツは、別の解釈の可能性を意識することです。周囲の人を観察することで、そのことに気が付くことができます。決して、あなたの認知バイアスが間違っているわけではありません。しかし、自分の解釈に周りの人の解釈を加えることができれば、自己認知が豊かになり、感情知能が高まります。自己認知は、訂正や修正ではなく、充実させることで成長するのです。
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