自分のトリセツ「目指すべき意識領域」
六道から四聖へ
前回の記事で触れた、地獄界から天界までの「六道」の在りようでは、結局のところ、外の条件にいちいち反応していると言えます。
欲望が満たされた時は 天界の喜びを味わったり、環境が平穏である場合は人界の安らぎを味わえますが、ひとたび それらの条件が失われた場合には、たちまち地獄界や餓鬼界の苦しみの境涯に転落してしまいます。
外部環境に影響されているという意味で、「六道」の在りようでは、本当の意味で自由で主体的な人生を歩んでいるとは言えません。
目指すべきは、外部の環境に左右される「六道」を超え、外部の環境に影響を受けない、「四聖」という在りようになるのです。
「四聖」という意識領域
【声聞界(しょうもんかい)】
前回の記事でも触れた、十界(じっかい)のうち、下から「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」の6つを総称し、六道(ろくどう)と呼びます。
その6つの世界をグルグルしてしまっている状態を「六道輪廻(ろくどうりんね)」と呼び、外部の状況に一喜一憂する在りようになってしまっているので、そこを何とかして抜け出さなければなりません。
その最初の段階として、「声聞界」というものがあり、この状態は、声を聞く、つまり「学ぶ」という状態を指しています。
六道輪廻という「迷いの輪廻」を智慧のちからで打ち破り、主体的な輪廻へ移行するための段階のことを「声聞界」と呼ぶのです。
わたしたちが人間である以上、自我から抜け出すことは決してあり得ません。
けれど、その自我を自覚したうえで、より良い生き方や在り方について「学ぶ」ということによって、自らの人生をより良い方向へ進めていくことができるようになっていくのです。
英語で「哲学」のことを「フィロソフィー」と言いますが、それは、ギリシア語の「フィロソフィアに」由来し、知恵(ソフィア)を愛する(フィレイン)という意味を持っています。
古今東西を問わず、わたしたちがより良い人生を歩んでいく上でも、学ぶことを大切にする=「声聞」という状態はとても重要になるのです。
【縁覚界(えんがくかい)】
「縁覚界」という言葉は、ご縁によって覚るという世界のことを示してくれています。
ブッダが説いた仏教の教えに「因果の法則」というものがあります。
仏教では、因と果を結ぶ間に縁があると考えます。原因があって、縁の作用が加わって、結果となる。仏教ではこれを因果の法則といい、世の中のすべてを説明できるのです。
引用:ニッポン放送 瀬戸内寂聴「今日を生きるための言葉」
「縁覚界」いる人は、原因と結果の法則性のなかに、必ず「他者」によるご縁があるということを、深く実感することができています。
そのような状態では、「人は決して一人では生きていない」という事実を腑に落とすことができ、自ずと多くの人や事象に「感謝」の心が芽生えていきます。
【菩薩界(ぼさつかい)】
「人は決して一人では生きていない」ということを腑に落とすことができたとき、人は自ずと、自分探求や自分追求ではなく、世のため、人のために何かを成そうという意識が生まれてきます。
自分目線が外れ、視座高く、使命感をもって、世のため人のために行動していく「貢献愛」の人として、社会のなかで、広く活躍をすることとなります。
ガンジーやマザー・テレサのような偉人を思い浮かべると分かりやすいかも知れません。
友の幸福のためにどれだけ尽くしているか、そこに人間の偉大さを測る物差しがある。
ガンジー
説教して聞かせても、それは人と触れ合う場にはなりません。
ほうきを持って誰かの家をきれいにしてあげてごらんなさい。
その方がもっと雄弁なのですから。
マザー・テレサ
【仏界(ぶっかい)】
ガンジーやマザー・テレサのような歴史的な偉人たちが「菩薩界」にいたとして、その上のレベルに位置する「仏界」とはどのような状態を表すのでしょう?
一言で表現をするならば、「悟りの境地」ということになるかと思います。
仏門などで修業している人たちの多くは、この境地に達することを目標とし、日夜厳しい修行に明け暮れています。
わたしのような凡人には到底及ばない世界ではありますが、このように意識レベルが上がっていくことにより、人は、目の前に起こる事象に囚われない、穏やかな心持ちで在れるようになるのです。
そしてそのような心持で在ることによって、その意識が観測した世界が粒子化していきます。
わたしたちの意識が現実を創造するということが本当の意味で理解できたとき、わたしたちは「六道」を離れ、「四聖」を目指す生き方を志せるようになるはずです。
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