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時々冗談混じりで夫に言う。退職したら半分はバージニアあたりの山の中、半分は宮崎の海のそばに住もう。(*アメリカ東在住です) アメリカ人の夫は奈良に6年住んでいたが九州を訪れたのは結婚前に私の鹿児島の実家と、宮崎の叔母を訪ねたのが初めてだったと思う。そしてその後一度また鹿児島に来たきりでそれ以降は機会がなかった。 鹿児島に来たときには桜島の噴火にビクビクしており、鹿児島に住むのは絶対に嫌だと言っていた。 ”日本に住むなら地震がないところ”とおどおどしながら懇願するが、日本で地
帰宅途中、ハイウェイをひとつ手前で降りると小さな中華料理の店を通る道に出る。(アメリカ東で教師をしています) ゴミを極力出さない生活を徹底し始めてからは、もう外食もテイクアウトもしていないが、この学校で働き始めた当時は何ヶ月かに一度、学校の帰りに中華をテイクアウトすることがあった。 包丁も握りたくない、電子レンジでチンするのもめんどい、パンをトーストするのもだるい、それほどに遅く疲れて帰宅することが多かった頃だ。 その小さな中華は、アメリカではどんなに辺鄙な街にでも必ずあ
11月も半ばを過ぎ、もうすぐ秋学期が終わる。キャンパスの木々はここ1−2週間で一気に色を変え、足元にはたくさんの落ち葉とどんぐりがあった。(*アメリカ東で教師をしています)この時期になるとかわいいあの子の笑顔を思い出す。 ☆ 学校のメールのスパムフォルダーを整理していた。気づけばしばらく見ていなかったのだろう、何百件というジャンクメールが溜まっていた。 その1ページ目の一番下に見慣れた名前が見える。 ソンジエ M、とだけあったが、これはひょっとしてあのソンジエだろうか
コロラド州での大学時代に何を思い立ったかメキシコのチワワ州までドライブしたことがある。 理由は ”チワワ州にはチワワがたくさんおるんじゃなかろうか?” という今考えると馬鹿すぎるものであるが、その時はいい考えに思えた。 私は当時チワワ2匹の親であり、彼らのルーツを探しに訪ねたかったのだ。(*犬は連れて行けませんので元カレに預かってもらいました) 自宅にネットもなければ携帯電話もない90年代の中頃は、憶測と噂と経験者の話でしか情報が集められず不安もあるが、地図を見ると一直線に
ボンタンアメをひとつ握りしめている。 あまり早く食べてしまうともったいない。 でも美味しいので早く食べてしまいたい。 長く手に持っているとオブラートが溶けてしまう。 次のトンネルが来たらこれを口に入れよう。 小学一年の夏、宮崎の田舎から1時間ほど離れた別の田舎まで、土曜日にひとりで汽車に乗っていた。母方のじいちゃんが国語の教師、高校の校長先生を退職したのちに自宅で習字教室を開いており、そこに通っていたからだ。 学校が半ドンで終わると、駅近くにある父方のばあちゃん家で急いで
私は落ち込んだ時や沈みがちの時、そして病気の時にも食欲が落ちることがほとんどない。病気の時は”食べられない”という気持ちにはならず、”今日は気分がよくないから何を食べようか”と思う。 以前書いたように私は何か衝撃的なことが人生で起こった時には3日だけ自分に暴れまくる期間をあげ、ネガティブな自分はきっちり3日後に自らの手で死刑にすることにしているが、その死刑を待つ3日間も好きなものを好きなだけ好きな時に好きなように食べるようにしている。ダイエットとか健康とか腹八分とか消化とか
WBCの盛り上がりを見ながら考えるのはもうなくなってしまった我が校の野球部のこと。 うちの運動部は弱小チームばかり。 アメリカでは季節ごとにチームスポーツが変わり、秋はラクロス、冬はバスケット、春はクロスカントリーなど一人の生徒が3学期違うチームで頑張ることも可能だ。(*アメリカ東の私立高で教師をしています) 運動が好きで得意な生徒はあらゆるクラブで活躍するが、そんな万能選手がいたとしても1学期という短い期間ではチームの結束やあうんの呼吸のような連帯感は生まれにくく、特に
アメリカの大学留学中、私はギリギリのギリギリになるまでやる気がわかない学生だった。 あれから随分経った現在も似たようなものなので時間のプレッシャーに押しつぶされる時に最高の出来の何かが書ける人間なのだ、と諦めている。 何の宿題でも前日、前夜に取り掛かり、徹夜でやり終えるのが常だったが、だいたいはその直前までお酒を飲んだりもしていた。 そんな私には夜更けに宿題をしているかどうかを確認する電話をかけてくる友達がいた。トビーだ。 *以前書いた記事を編集・加筆して再掲載しています
歳をとり、誰しもこれまでの恋愛を振り返れば あぁ、あの人が自分にとっての男前の基準を決定した人物なのだ という原点にたどり着くのではないだろうか。 私の恋愛は国籍も年齢も恋愛の内容もバラバラだったが、それでも二人基準になった人が思い浮かぶ。 もし神様に時間と空間を超えて会わせてあげるよ、と願いを叶えてもらえるならば迷わずこの二人に会いに行きたい。 一人はDavid Attenborough(デビッド・アッテンボロー)さん。 BBCの自然科学ドキュメンタリーシリーズでお馴染み
*過去記事を編集・加筆して再掲しています 今日、生徒が髪を真っ赤に染めて学校に来た。校則で髪の色は決まっていないし、青い髪もピンクもいるし、タトゥーもボディピアスがある生徒もたくさんいるので、特に気にしていない(*アメリカ東の私立校で教師をしています)。 でもその彼女はいつも制服をきちんと着て、休み時間は静かに本を読み、お昼も音楽を聴きながら一人で食べるような子だったので派手な赤をチョイスしたことにちょっとだけ驚いた。 私も大学の時に髪を真っ赤に染めた。自分自身の存在意義に
小学校高学年のころ住んでいた家は大きな病院のすぐ目の前だった。 夕方薄暗くなってからは、その病院の入院棟の前の小さな道はちょっと怖いくらい静かで、まだ早い時間、6時とか7時とか、でも静まり返った古いコンクリートの大きな建物を通り過ぎる時は自然と早足になった。 ある夕方私はその道を歩いて家に帰る途中に、建物の外に立ち窓枠に手をかけて中を見ている白っぽい人間を見た。一瞬よりももっと長く見たが、怖くなって確かめることもなく走って逃げた。 確かめる、とはそれが生身の人間なのかそうで
アメリカに留学している時にフラメンコの教室を見つけ、週に2回通うことにした。 中級から上級、プロの方もいるスタジオで、私は超初心者のため、先生がひとりついてくれ、最初の2日は2時間みっちり色々なステップの練習をした。年配の先生は 練習したら上手になるわよ〜筋がいいわ〜 と褒めてくれ、褒められて伸びるタイプの私は次のレッスン日まで家でウキウキでカタカタと練習を続けていた。 フラメンコシューズもふわふわのスカートも教えられたダウンタウンのダンス専用の店で一番安いものをとりあえ
授業を終えて車に戻ると、必ず小さなメモがフロントガラスに挟んであるようになった。 コロラド州の大学院で学生をしつつ、学部生を教えていた時のことだ。 自分の専用スペースはないので毎日空いているところに車を停めるのだが、昼に車を停めた自分でさえ時々見つけるのが困難ほど巨大な駐車場だった。 空港などでAの15区、などと覚えていないと永遠に車が見つからないのと同じような感じであったがそんな親切な表示はどこにもなかった。 ある日の帰宅時、そんなだだっ広い駐車場に停めた私の赤い車のフ
何年か前の10月某日。 まだ午後の授業が終わらないうちに仲の良い同僚から、 ”シマへのお届けものがメールルームに来てたから車の上に置いておくよ” とメールが届いた。(*アメリカ東で教師をしています) 注文していた本か実験の道具か、それとも生徒からの手紙か、なんだろうと思いながら駐車場に向かうと、遠くからも私の車のボンネットに置かれた大きな長い箱が見えた。 開けてみると色とりどりの薔薇の花束が入っている。 9年目の結婚記念日だった。 私はすっかり忘れていた・・・というより