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万世特攻平和祈念館を訪れる(1)

 前回書いたとおり、私は島根県を出て山口県を横断、その後九州自動車道を縦断し、南さつま市を目指した。途中の八代ー人吉間の23個のトンネル群、熊本と宮崎の県境を6km以上貫く加久藤トンネル、えびの高原周辺の見晴らしの良さと解放感、そんなドライブを楽しみつつ、加治木JCTから西側へと進み錦江湾を左手に鹿児島市内へ入る。谷山ICで高速を下り県道20号・22号線を西へと進む。峠を越えて20分ほど下ると国道272号線へとぶつかる。そこから15分ほど南下すると万世特攻平和祈念館に到着する。

 ちなみに祈念館プロパーのHPはないようで、南さつま市観光協会のページが公式HPとして扱われている。

 万世特攻平和祈念館は1993年に、南さつま市の旧加世田市万世地区にあった万世飛行場の跡地に建てられた。当初は加世田市の管理だったようだが、合併により今は南さつま市の管理となっている。万世飛行場は元々吹上浜と呼ばれる東シナ海に面した砂地に造られた飛行場であるため、祈念館の周囲も比較的平らで、車で2,3分も行けば海である。
 
 裏手の駐車場へ車を止める。目の前には物産館があり、周囲には体育館等もある。加世田地区のさまざまな施設が集積しているエリアの一部になっているようだ。
 駐車場から正面入口へ向かうと、石碑のほか多くの石灯篭が見えてくる。

石灯篭

 どれも献灯されたもののようだ。この灯篭を日差しから守るかのようにクロマツが生えており、さながらお寺へ来たような印象を覚える。

 館内に入る前に石碑を見て回る。特攻隊員だけでなく空襲等で犠牲になった方々の慰霊碑も目に付く。これは飛行場の建造中に空襲に遭って亡くなった地元の方の慰霊碑である。

戦没者・殉職者慰霊碑
飛行場建設時殉職者。全員女性である。

 この万世の祈念館の特徴は、特攻だけでなく万世飛行場に関わったすべての犠牲者を慰霊しているところである。後述するが知覧特攻平和会館は、全基地から飛び立った特攻隊員全員を慰霊する施設、という建前になっており、そこが両館の異なる点とのこと。

 また「よろずよに」と名付けられた石碑がある。これは昭和47年に建立されたもの。

よろずよに
碑文

 碑文には「祖国護持の礎たらんと」「その殉国の至誠は鬼神もこれに哭するであろう」「英霊の魂魄を鎮め、その偉勲を讃えんがために」といった文言に、戦中の価値観に近いものを読み取ってしまう。戦後30年経っていない頃はこういった言い回しがまだ人口に膾炙していたのだろうなという印象を受ける。50年前の感覚を今体感することは難しいのかもしれない。

 最も目立つ場所には元特攻隊員でこの祈念館の開設に尽力した苗村七郎氏による慰霊の言葉が記してある。

石碑と灯篭
苗村氏のことば

 「生きてしあらば青雲の志に燃え祖国を興隆し翔いたであろう若者に国の危急存亡の時操縦桿を握らせあたら南溟に散華せしめたこの哀惜と痛恨を後世に傳う」
 石碑の下部に碑文があるが、この苗村さん1人の強固な意志によってこの祈念館は完成にこぎつけた。このことが祈念館にとって決定的に重要な点だと祈念館を見終わってから私は強く感じた。

 一通り外を見終わってから館内へ入ることにする。

外観

 展示物は遺書や遺品を除いて撮影はOKとされていた。まず入口から入ってすぐのホールには大きな飛行機の残骸が展示してある。特攻機か?と思ってしまうがそうではなく、近くの吹上浜に戦時中に墜落した海軍の飛行機は戦後もずっと海中の砂に埋もれていたところ、1990年ころに発見されて海底から引き揚げられ、この祈念館オープンに合わせて設置されたものとのこと。その機体を囲むように機材の数々が展示されている。また万世飛行場建築の歴史も記してある。

 もともと福岡の大刀洗にあった陸軍飛行学校の分教場が知覧に建設されたのち、知覧の飛行場が特攻の出撃基地へと作り変えられるのと並行して、飛行場がさらに必要となったために大刀洗の陸軍飛行学校の分教場として万世飛行場がつくられた、という経緯のようだ。ただこの万世飛行場は実際には分校としては利用されず、1945年には特攻の出撃基地へと変貌を遂げることとなる。

 機体をグルっと一周すると2階への階段がある。2階には特攻で戦死した日本兵の残した手紙や遺言、遺品等が展示されている、まさにミュージアムのメインのところであるが、階段で2階に上がる前に1階にあるパネルを見ていく。そこには太平洋戦争の年表とともに万世飛行場がたどった歴史が記されている。

 その中で万世飛行場建設の経緯が書かれている。そもそも砂地で飛行場には不適だったが、あらたな収用のコストが低いことから選ばれ、建設予定地に住んでいた数十戸の世帯が移転を余儀なくされたとのことである。そしてその中に、朝鮮人労働者500〜600人および中国人捕虜100人が飛行場建設に就労していたと記載されていた。
 これを見ると、世界遺産の認定のたびにICOMOSから指摘されている点を想起させられる。2015年に世界遺産に認定された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」でも強制労働に関する説明が不十分であると指摘されていたし、今回話題となった佐渡金山についても同様に朝鮮人労働者の強制労働に関する展示についてICOMOSから勧告を受けている。

 世界遺産登録に関しては、21世紀以降は特に人類史のダークサイドを意識した検討がなされているという指摘もあるところ(井出明「悲劇の世界遺産 ダークツーリズムから見た世界」(2021)p33)、太平洋戦争中の日本における生産活動のあらゆる局面において朝鮮人や台湾からの労働者、捕虜が使われていたことはある種常識となっているため、ここへの言及があるのが当然で、むしろそのような展示のないミュージアムは時代の趨勢に追いついていないとすら思ってしまう。
 そういった意味で万世特攻平和祈念館がしっかり言及していることは良いことだと思う。

 飛行場建設の話に戻ると、当時の飛行場は芝生で覆うことが通常だったところ、万世飛行場はそもそもが砂地であり本来は飛行機の出撃に向かなかったが近隣の山から「スイセイ岩」を呼ばれる石を敷き詰めて滑走路を造ったとのことで、本来ならセメントを敷き詰めるところ物資不足によりそれが叶わなかったための応急処置で、太平洋戦争末期の国内の状況を如実に示すような建設経緯である。そのように砂や石でできた滑走路は通常の飛行機のように離陸後に車輪を機体に収納し、離陸時に機体から車輪を出すような仕組みの航空機だと車輪とともに石を巻き込んで故障する可能性があったため、外に車輪が固定されている旧式の航空機専門の滑走路とされていたとのこと。数少ない飛行機をなるべく出撃させようという、ある種追いつめられた状況であったことが感じられた。

 そういった建設の経緯とともに、太平洋戦争自体の年表も展示されている。その中で、特攻作戦が取られた経緯についても説明がされていた。

 私は、特攻隊に関する公設のミュージアムとして最も重要なことは、当時の日本軍がなぜ特攻作戦を立案し、組織的に実施してしまったのか、その経緯を丹念に追った上で、その経緯のどこが誤りで、どこが帰還不能点(ポイントオブノーリターン)でその時どう判断すればよかったのかについて、訪れる人が判断できる材料を与えること、そして行政機関として、どこで誤ったのかについて一定の考え方を示すことだと思っている。
 特攻に関するミュージアムは、二度と戦争を起こさないこと、特攻のような作戦による犠牲者を生まないことが目的で設立されているのはどこも同じであろう。そうであれば、二度と同じ悲劇を繰り返さないためには、歴史を紐解き、どこが誤っていたかの議論を整理しなければ不十分であると思う。見る人の戦争は嫌だ、特攻で亡くなった人がかわいそう、というような感情に訴えるだけでは不十分で、その感情の裏にある理性と知性による丁寧な分析がなければ、本当に同じ悲劇を防ぐことはできないだろう。

 今回私はそういった観点で万世および知覧の両館を見ていく予定だったためにここが最も重要だった。

 万世特攻平和祈念館の説明は大要、次のようなものだった。
 
 1944年3月に陸軍が体当たり作戦の採用を決定、そして同年10月に編成準備、神風特攻隊が初の攻撃開始、と書いてある。経緯についての言及はそれくらいである。

 正直に言うとこれではなぜ特攻作戦が取られたかの経緯が全く分からない。この点は残念だと思った。ただ、特攻作戦を命令された兵士側の立場に立つと、作戦の指令は降った話のようなものであるし、兵士の視点ではそうなるのかもしれない。ただ、この作戦に至る経緯については近年も新たな知見や研究が進んでいる分野であり、それをキャッチアップしておく必要があると思う。
 先に紹介した苗村氏の「生きてしあらば青雲の志に燃え祖国を興隆し翔いたであろう若者に国の危急存亡の時操縦桿を握らせあたら南溟に散華せしめたこの哀惜と痛恨を後世に傳う」という言葉の重みを改めて思い出させられた。
 同期や仲間を特攻作戦で失ってしまった苗村氏は1960年に万世の地を再訪して以来、自らの足で元特攻隊員や遺族のもとを訪ね歩いて遺品や遺言、手紙などの資料を収集しつつ、当時の市や関係者に働きかけ祈念館の設立に心血を注いだ。その苗村氏が、仲間を失った悲しみに留まらず、本来ならば国の発展のために活躍できたはずの若者に飛行機を操縦させ死に至らしめてしまったことの後悔を記していることに対し、純粋に頭の下がる思いがした。
 こういった犠牲、損失を再び出さないようにするにはどうすればよいか、冷静沈着に考えていかなければならないし、そのために知らなければならないことは多く残されていると思う。こういった先人の思いに、実際に滑走路のあった地で触れられること、これこそがダークツーリズムの醍醐味であると思う。

 もう1点、特攻について必ず議論になるのが、特攻に参加した兵士は自発的に立候補したのか、強制されたのか、という点である。これについても種々の議論があるが、この祈念館の説明としては次のとおりであった。

 兵士は「特攻が唯一の方法と教えられ」ており、「自らも日本古来の忠誠心の発露と確信して自然発生的に特攻を志願し」た。しかし他方で「志願か例え命令であっても、祖国、家族を守らねばならない使命感と国や民族の誇り」のために出撃した、というのが祈念館の理解である。 
 冷静に見ると、「志願した」と言いつつ「志願か例え命令であっても」と言っている点で文面上矛盾が生じているし、祖国を守る使命感、民族の誇りという動機が朝鮮半島や台湾から徴兵されて特攻隊員となった方々に当てはまるかと言われると疑問が残る。

 ただ、この矛盾した文章から、祈念館としての葛藤があるのではないかと感じられた。すなわち、関係者の中には、特攻隊は祖国を守り愛する人を守るために誇りを胸に散っていったのだ、というストーリーを強硬に主張し、特攻作戦自体の欠陥を指摘することが死者への冒瀆だと捉える人がいるのだろうと想像される。
 他方、地道に研究を行っている人からすると、そんな表現で回収しきれない様々な事情があることを示す必要がある。その妥協の産物として「志願か例え命令であっても」というような曖昧な表現に落ち着いたのではないかと思う。
 以上は私の勝手な推測にすぎないが、他の展示の端的な表現と比べてここについてクリアな表現ができないところには何かしらの理由があると考えるのが自然だろう。深読みかもしれないが、後に記す学芸員の講話を聞いてもその点を感じたところである。

(2)に続く


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