戦争遺構への向き合い方
8月の後半の休みを利用して鹿児島・宮崎を少し旅してきた。地元の熊本には最終日に立ち寄ったくらいで熊本をスルーして南九州に行った目的の一つは、特攻隊に関する資料館を訪れることだった。ダークツーリズムという言葉を一般の人が聞いてイメージするのは広島・長崎の原爆遺構と知覧の特攻平和会館ではないかと思う。とあるオリンピアンが日本に帰国してから行きたい場所として挙げたことで話題になったのも記憶に新しいところである。熊本出身ではあるがなかなか九州の南の果てにある知覧まで足を延ばすことが今までなかったのであるが、せっかくダークツーリズムに関心を持ち、このnoteも始めてしまったので、いい機会と思い訪れることにした。
7月くらいから訪問計画を立てていたところにオリンピアンの発言が話題になったため、流行りの後追いみたいになってしまったがやむを得ない。
ということで今住んでいる津和野町から約500㎞、7時間強のロングドライブを敢行した。車を酷使しCO2も排出するがこちらもやむを得ない。
とここまで特攻隊の資料館が目的地と書いたが、知覧の知覧特攻平和会館が有名であるが、知覧から北東約20kmの距離の旧加世田市(現南さつま市)にある「万世特攻平和祈念館」も目的地である。一般的には特攻=知覧、のイメージがあるが、実際の特攻機は知覧だけでなく西日本各地の基地から出撃がなされている。知覧特攻平和会館HPで基地ごとの特攻出撃数がまとめられている。
これを見ると九州も多いが、山口県下関市の小月地区からも出撃されていることがわかる。同じ小月地区内には今も海上自衛隊の航空基地があり、大戦中の名残が残っているともいえる。また台湾から出撃がされていることも忘れてはいけない重要な点である。
特攻機の出撃がされた地域のうちミュージアム化されているのは、鹿児島県南九州市知覧にある知覧特攻平和会館、同じく鹿児島県の南さつま市加世田にある万世特攻平和祈念館、そして福岡県筑前町大刀洗にある大刀洗平和記念館の3か所である。鹿屋航空基地史料館にも私は訪れたことはないが、特攻に関する展示があるとのことである。ただ、海上自衛隊の史料館として広く歴史について取り上げていることから、特攻に関するミュージアムと言えるかは微妙である。このうち大刀洗平和祈念館は3年ほど前に訪れたことがあるが、詳細をメモ等しておらず記念館について忘れていることも多いためまた再訪したい。
大刀洗もそうであるが、知覧だけでなく南さつま市加世田にも祈念館があることは知覧ほどは知られていないように思う。万世と知覧の両館は車で30分程度の距離であるためセットで訪れることが可能である。今回私は万世→知覧の順で回ることにした。
そこで見たこと感じたことを書いていきたいところであるが、その前に、こういった戦争に関する遺構、特に旧日本軍について言及する際に書き留めておきたいことがある。
旧日本軍については、非戦闘員の殺傷や物資の略奪、強姦、毒ガス使用、人肉食等を殊更に取り上げて従軍していた個人への非難がされることがあり、それに対し、旧日本兵の過去の行為を掘り起こして名誉を傷付けるなという反論がなされて、戦時の旧日本軍の行為について相対する意見が衝突することがよくある。戦争遺構について語る前提として、この対立をどう考えるべきか、整理しておかなければならないように思う。
これについて、過去にどなたかがクリアな整理をしていて、それを基に議論しようと思ったのであるが、肝心のその議論の出典が思い出せていない。思い出したら追記するとして、私なりの理解で整理しておきたい。
まず、議論の出発点として、旧日本兵については、「一私人」という側面と、「国家公務員」という側面の2種類があったのであり、戦時中の行為については両側面を分けるべきである。すなわち、一私人として戦闘行為等をしたくなかったとしても、日本軍の兵士になるということは、国家公務員になることであり、そうなった以上は、国家組織である軍隊内の組織上の規律に従わなければならず、上からの命令に従うことは公務員としての職務上の義務であり、それに違背すると軍法会議に掛けられて処罰される可能性がある、という立場にあることを理解しなければならない。
それを前提にすると、戦場において戦闘行為として敵兵を殺した旧日本兵に対して、現代の視点から「人殺しだ」と揶揄することは誤りだということが分かる。すなわち、旧日本兵は職務上の義務として戦闘行為、いわば殺人をしたのであり、それを非難することは、その個人が職務上の義務に従ったことを非難していることになる。これは当人にはどうしようもない問題であるし、仮に命令に違背して戦闘を回避する行為をすれば軍法会議で極刑に処される可能性もあったのであり、当人としては、戦闘行為をして公務員としての義務を努めたのであり、当時の国の命令に従ったという点では法的には非難に値しないといえる。
通常の刑法との関連でいえば、陸軍刑法のような軍法は刑法とは一般法と特別法の関係になるため、通常の刑法では処罰されない。
刑法総論的な考え方に立つと正当業務行為や期待可能性の考え方が参考になると思う。すなわち正当業務行為は、刑法上、結果を生じさせる行為であっても、正当な業務行為については処罰しないとされている。刑法の教科書ではボクシングの試合によるケガについて傷害罪が適用されないという例がよく挙げられている。戦闘行為も正当業務行為となることについては、死刑執行する執行官がボタンを押す行為をイメージすると分かりやすいかもしれない。
また、本人が命令を拒絶すると軍法会議に掛けられ極刑に処されるかもしれないとすると、期待可能性がないという言い方もできるかもしれない。日本の刑事裁判でも時々なされる主張で、例えば別の人に脅されていてそうせざるを得なかった、という場合に、それでもその行為をしないことを行為者に対して法的に期待することが可能か、という議論である。
法的な責任の問い方はともかく、他方で通常の戦闘行為を行った者に対して「人殺し」と非難する側に立つ人間の感じ方はどのようなものなのだろうか。
もし人殺しが絶対的な悪と考えているのであれば、その非難はその者宛でなく、その者に公務上の命令として戦闘行為を命じた側、すなわち戦争遂行した日本軍、それを統帥する統治機構を非難するものでなければならないであろう。当時の軍が下した公務上の命令、果ては開戦を決定した統治機構の決定プロセスの是非を問うべきであろう。
この視点で、通常の戦闘行為以外の人道に悖る行為について考える。例えば旧日本軍で捕虜を殺害する行為が行われたのは公知の事実であろう。では捕虜の首を実際に刎ねた兵士を非難することが可能であろうか。もしその兵士が捕虜の処遇を決定できる立場にあれば、捕虜に関する処遇を定めだジュネーブ条約に違反するために戦争犯罪となり非難に値する。
しかし、往々にしてこのような捕虜の殺害は上官の命令でなされたものである。日本刀の切れ味を試すため、とか、新入兵を戦争に慣れさせるため、などの目的で斬首がなされたという記録は枚挙に暇がない。このとき、実際に首を刎ねた兵士は、上官の命令に従って行ったのであり、仮に上官の命令に反した場合は軍法会議にかけられて自分が極刑に処される可能性すらある。そんな兵士に結果を回避する合理的な期待可能性は存在しないのではないか。そもそも末端の兵士に捕虜の処遇に関するジュネーブ条約の内容が教授されていたかは、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」という文言からすると多分に怪しい。末端の兵士には命令に逆らうという選択肢はなかったことがほとんどであろう。
そうであれば、処罰されるとすれば命令を出せる立場にあった兵士となる。実際にB級戦犯は、そういった命令を出す立場にあった軍の上級紙機関への責任追及を念頭に置いている。もっとも、実際に命令を止めることへの期待可能性があったかは、さらに上の上官との関係や、旧日本軍内での戦時法規の教育がされていたのかという点も含めて疑問が多いのであるが。
そう考えると、兵士は人道に悖る行為であっても命令であれば従わざるを得ない状況にあったのであり、そういった内心での葛藤があったのに対して戦後になって非難する風潮があったからこそ、帰還兵がPTSDを発症することも多々あったのである。
他方、戦争放棄違反の行為であっても、アイヒマンのように、命令されたからやったにすぎない、私がやらなくても他の誰かがやったであろう、ということが免罪符にできるかというと必ずしもそうでもない。個々のケースについて詳しく検討していく必要がある。
とこう見ていくと、旧日本軍による非戦闘員の殺傷、略奪のような明らかな戦争法規違反行為を捉えて個々の兵士を非難することよりも、我々が問わなければならないのは、そんな命令を出した旧日本軍の組織や指示系統、果てはロジスティクスを無視した作戦立案、ジュネーブ条約等の国際法の無視、戦陣訓での捕虜となることを実質上禁ずる人命軽視の姿勢等、旧日本軍という組織上の問題と戦争へ向かうことを決定した大日本帝国という国のあり方であろう。その国家の違法な命令に公務員として従わざるを得なかった旧日本兵の無念や葛藤に思いを寄せつつ、歴史上の事実がどうであったかを見ていくことが必要であり、実際に戦死したり餓死したりした日本兵たちについて、誇りをもって尊い犠牲となったのだ、というような表現をすることは、死者に寄り添った行為ではないと私は思う。
特攻についても、建前上は志願による作戦参加という形がとられているが、実際は同じ兵士に何度も志願するかと執拗に聞いたケース等、事実上強制していた記録は多く残っている。個々の兵士の特攻作戦への参加は実際には軍の命令として行われた側面を否定することはできない。となると我々が問わなければならないのは、なぜそのような命令が組織としてなされたのか、という点である。これこそが特攻において決定的に重要であり、本当に特攻のような悲劇を再び起こさないようにするためには、現代から振り返って、大日本帝国が選んだ道の間違いを丁寧に見ていくことが必要だろう。
特攻を批判することが、実際に特攻で命を落とした日本兵の尊厳を傷つけることに直結するかのように言われることもある。しかし、個々の兵士がどういった感情で特攻作戦に従事したかは千差万別だと思うし、検閲を気にしながら書いた遺書が本心をすべて記しているかも分からないが、仮に兵士が誇りをもって特攻作戦に従事したのだとしても、その特攻作戦を組織的に行った日本軍の作戦立案プロセスを批判的に見ることは両立することであり、そのことが特攻作戦に従事した兵士の名誉を傷つけることにはならないと思うし、むしろこういった非人道的な作戦を二度と起こさないよう現代の視点から見ていくことが死者への弔いになると思う。
私としてはこのような議論や考え方を前提に、万世および知覧の両館の訪問記を次回書いていくことにしたい。
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