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万世特攻平和祈念館を訪れる(2)

※前回の記事はこちら

 祈念館の1階の奥には会議室があり、そこで午前と午後の2回、学芸員による講話が行われるとのこと。それまで1時間弱あったために他の展示を見て最後に講話を聴くことにする。
 会議室までの通路では特別企画展として、北海道・東北出身の特攻隊員の遺書・手紙が展示されていた。これも苗村氏をはじめ関係者が遺族の方から収集した資料の一部である。祈念館では特攻隊員を出身都道府県別に分類してある表があったが、それを見ると全47都道府県から特攻隊員が出ていることが分かった。地域性関係なく、はるばる東方から九州まで来て特攻作戦に参加していった方たちを思うとやるせない気持ちにさせられる。それぞれの顔写真とともに、手紙類もそのまま読めるくらい明晰な字で書いてあるものが多い。家族でしか分からないような情報の注釈も残されており、より1人1人のパーソナリティに近づけると同時に、こういったものを提供してもらえる、祈念館と遺族の関係性というものも垣間見えた。

 展示を見ていると、夏休みの行事だろうか、小学生の団体が会議室へと入っていった。学芸員による講話を受けるのだろう。
 子どもたちに特攻について何をどう語るのか、その子たちが大人になってからも関心を持ち続けるにはどうすればよいのか、自分がいつも子どもに接するときにそんなことを考えてしまう。特別展示の横にはこの祈念館を見学した子どもたちの感想もたくさん貼り出されていた。

 そしていよいよ2階へと向かう。
 2階は大きな部屋が1つあり、その周囲の壁に沿って特攻に出撃して戦死した日の順に全員の名前と9割以上の方の顔写真と、遺書や手紙等が残されている。展示室の真ん中には特攻作戦に至った経緯が書いてある。ここまで書いて思い出したが、前回の記事で書いた特攻が志願か命令かという点の記載はこの2階の展示だったと思う。ともかく、2階の展示室は時系列に沿って資料が展示されている作りである。
 遺書や手紙は現物の保存状態が良くそのまま読めるものが多い。父母への感謝や心配ない旨述べるもの、弟や妹に兄として言葉をかけるもの、淡々と状況を述べるもの、千差万別である。もちろん特攻について否定的なことを書いているものはない。
 特攻隊員が本心を書くことができたのか、という点は常に論争のトピックとして挙げられるが、検閲もあるほか、軍について否定的なことを書いた場合に家族が非国民扱いされ村八分にされる等もあったことからすると、遺書にすべて本心を書いているかは分からない。それぞれに異なる思いがあったのは当然であるから内心を他者が理解することは不可能であるが、遺書に書いてあることをそのまま字義通り受け取るか、内心はそうではなくてもこの言葉を選んだのかもしれないと受け取って読むかは、読み手に委ねられている。
 肝心なのは、これを実際に書いた人がいるということ、その人がどんな状況に置かれていたかを頭に入れつつ、どのような気持ちでこれを書いたのかを想像してみることだろう。

 なお、軍事郵便の検閲に関して、昭和館の学芸員の方による論文がネット上で読める。論文中のp40からが検閲に関する内容となっており、戦中に検閲が強化された経緯が分かる。

 財満幸恵「戦中の軍事郵便とその検閲についてー日中戦争から終戦までを中心にー」

https://www.showakan.go.jp/main/wp-content/uploads/2023/01/08_gunji_yubin.pdf

 展示の中には、子犬を抱いた写真で有名な荒木幸雄氏の遺品等も展示されている。この写真は長らく知覧で撮影されたものと思われていたが、装備品等から万世で撮影されたものだと判明したとのこと。
 これも含め、万世の祈念館の特徴としては、個々人のパーソナリティ等も深く理解できるような展示になっている点にあると思う。”特攻隊員”というカテゴリーで見てしまうと均質な人々を想像してしまうが、全員それぞれ歩んできた人生があり、周囲との関係性があり、という当たり前のことを思い出させてくれるようなものが多くあった。観覧者もそんなに多くはないため、ゆっくり時間をかけて見て回りたくなるような資料館となっていた。

 展示室の中央には、周りから遮蔽して照明が自動で点灯するようになった小部屋がある。ここは血書が展示されているスペースで、長時間の照明の照射による劣化をなるべく防ぐために人がいないときは照明が落ちる仕組みになっている。その中には血でしたためられた特攻隊員の文字や、基地周辺の女学生による血書も展示されている。
 血書の下には説明文があるが、その中で「行かされるのでなく自ら行くのだという決意を自分で確かめる」ために血書がなされたと書いてある。外形上はそういう行為なのかもしれないが、果たして内心がそうだったと言えるのだろうか。特攻は100%志願制だったと考える人の意思が投影されているのかな、と思ってしまった。

 また順路の最後の方には、特攻隊員と地域住民との関係についての展示があった。出撃前に宿に泊まる等をはじめ、基地で働いている住民らとの交流があったようで、特攻隊員に代わって隊員の様子を書いた手紙を故郷に届けたり、遺書を委ねられたりしたということが双方の手紙で残っているほか、出撃して亡くなったのちも地域の住民と遺族との間での交流が続いていたこととのこと。私的な内容を書いた手紙ではあるが、隊員たちをより深く知ってもらうためにこういった資料を祈念館に預けた遺族や地域の住民の思いはどのようなものなのなのだろう、と考えさせられた。隊員たち一人ひとりがより鮮明に描かれることで、まるで人格を無視した特攻という作戦の愚かさが浮き彫りにされていく。

 その横にはポツダム宣言受諾の日と翌日の新聞一面が展示されている。8月15日の朝刊までは勇ましい言葉を並べ立てていた新聞がよく16日の紙面になると英断だ、これからは復興が課題だ、という論調になっており、いつ見ても、当時のメディアの日和見主義、変わり身の早さには眩暈がしてくる。ここに展示されている新聞が今も現役で存続していること、そのメディアが何を伝えているか、常に注意深く見ていきたいところである。

 さて2階の展示を見終わると、1階の会議室での講話が始まる時間が近づいてきたためそちらへ向かう。講話は夏休み限定の企画だったようだ。

 後日調べると、この祈念館で行われている講話についての記事を見つけた。Yahooの特設ページ「未来に残す 戦争の記憶」に上がっている記事の1つである。

 私が訪れた時もこの記事で取り上げられている楮畑さんによる講話が行われた。
 会議室にはパイプ椅子が200近く並べられていた。私を含めて30名くらいの人が座っている。おそらく祈念館に来たお客さんのほとんどが参加しているようだ。
 まず講話を始めるにあたって、「この講話は戦争を賛美するものではなく、一方で遺族を卑下するものでもありません」という断りから始まった。おそらくこういった特攻の話をする、しかも戦争を経験していない世代、親ですら戦後生まれになっているような世代の人が大勢の聞き手を前に話をすると、おそらくいろんな言葉を投げかける人がいたのだろう。ただ、学芸員としては普段の研究活動に基づいた事実とそれについての考えを率直に伝えることが重要で、感情的になって言葉をぶつけることは控えるべきであるし、疑問点は冷静に議論することが重要だろうと思う。

 講話の内容を細かく伝えることはしないが、建物の外にある慰霊碑や建物の作りに込められた意味、特攻機や作戦の詳細、展示に関する補足やその背景等を約40分ほど解説していただいた。終始、資料等から分かることを淡々と話しつつ、現在の遺族との関わり等まで、展示だけではわからない様々な知識を得ることができた。

講話の際に配布された資料

 その中でも、万世飛行場で特攻作戦に従事した日本兵は若年者が多く、最年少が17歳、最年長が31歳で、妻帯者はほとんどいなかったという点が印象に残った。太平洋戦争末期には少年兵もどんどん徴兵されているし、一般的に妻子のある兵士は死を恐れる一方、独身で若い兵士は無鉄砲さがあり戦闘にも強いと言われており(吉田裕「日本軍兵士」(2017)p90)そういった背景もあったのだろうと思う(他に引用に適した書籍があると思うが、手元に特攻に関する書籍があまりないためご容赦いただきたい)。
 日本全国、果ては朝鮮半島と台湾から若い人材に航空機の操縦技術を身につけさせ、その有望な人材を敵機に突っ込ませる、しかもその間の飛行中に撃墜されることも数多くある成功率の低い作戦を組織的に行ってきた、そんな愚かな営みがなぜ引き起こされたのか、一般市民としても常に情報をアップデートしつつ振り返らなければならないと思う。

 ちなみにこの記事を書くにあたっていろいろ調べていたところ、参考にしたい文献を見つけた。
「『知覧』の誕生―特攻の記憶は いかに創られてきたのか―」と「『戦跡』の戦後史―せめぎ合う遺構とモニュメント―」の二冊である。

 いずれも戦争遺構への向き合い方や、戦後どのように扱われてきたかの歴史を書いた本とのことで、知覧をはじめ特攻についても深く知ることができそうであるし、観光という視点も入ってくるようである。読むことができたら紹介したい。またこうやって積ん読が増えてしまうのであるが。

 万世特攻平和祈念館での滞在時間は1時間半ほどだったが、特攻作戦に至った経緯等については展示や説明が不足していると感じたものの、戦争に関する資料館の中ではバランスの取れた展示で良いミュージアムであると思う。

 という万世特攻平和祈念館への比較的肯定的な個人的感想は、この後に訪れた知覧特攻平和会館との対比でより強いものになったのであるが。。

 知覧特攻平和会館についてはまた別の記事で書くことにしたい。

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