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『ブロンコ・ビリー』(★★★☆)

『夕陽のガンマン』や『ダーティー・ハリー』シリーズ等々における、凄腕ガンマン役で名を馳せたクリント・イーストウッドの監督7作目。

舞台は1970年代後半のアメリカ。

イーストウッド自身が演じる今作の主人公、ブロンコ・ビリーは、西部開拓時代(ウェスタン)の世界から抜け出てきたような、誇り高き西部の漢。彼を慕う仲間のカウボーイやインディアンの夫婦とともに、本物の西部を見せる『ワイルド・ウェスト・ショー』の一座を組み、全米中を旅して回っています。
“西部一の早撃ち”を自称する華麗なガン捌き、荒馬を乗りこなし、金銭よりも仲間との友情に価値を置き、女・子供に狼藉を働く悪党には鉄拳制裁を加える。
一見すると、イーストウッドのイメージ通りのお馴染みのキャラクターですが、今作のブロンコ・ビリーは、かつてイーストウッドが演じてきた、そうしたキャラクターを演じるキャラクターという、メタ的な構造を持っています。

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と言うのも、ブロンコ・ビリー(今作のイーストウッド)は、そもそも西部出身でもない、ニュージャージーの都会の片隅で生まれ育った東部の男。元々はしがない靴のセールスマンで、本物のカウボーイなんて見たこともない。
そんな彼が、本物のカウボーイ (過去のイーストウッド)に憧れ、なり切って、ブロンコ・ビリーという名の、架空のキャラクターを演じているのです。

これは、イーストウッドが自身のキャラクター性を、客観視し、パロディ化することで振り返る、ひとつの自分史、自分語りです。(実際のイーストウッドも、もちろん、本物のガンマンでもカウボーイでもありません。)

ただし、イーストウッドの映画作家としての稀有な特異性が発揮されているのが、この1980年に描かれた自分史が、同時に、1970年代末の時代性を鋭く批評する、アメリカ社会史でもあるという点です。

個人史を描くことで、同時にアメリカ史を語るという作家性は、『グラン・トリノ』はもとより、現時点での最新作である『ハドソン川の奇跡』まで、脈々と続いています。

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1860年代にはじまる西部開拓時代は、1890年のフロンティアの消滅により、ひとまず幕を下ろします。

しかし17世紀、北米大陸の東部植民地の開拓からはじまる、西へ西へ、新たなフロンティアを求めて続ける、ある種のアメリカ社会の宿命は、国内のフロンティアが消滅した後も、ハワイ併合、日本の開国から、なかば必然としての日米戦争、その後の朝鮮戦争へとアメリカ社会を駆り立てます。そして、その先にアメリカ社会が辿り着いたのは、ベトナムの泥沼の戦場でした。

75年に南ベトナムは陥落。その3年前にはウォーターゲート事件が起こっています。79年にはイランでの米大使館人質事件、ソ連によるアフガニスタン侵攻など、世界の中でのアメリカの影響力の低下が露見し始めます。
国内においても高い失業率にエネルギー危機。「自信の危機演説」として知られるテレビ・ラジオ演説では、ジミー・カーター大統領が、アメリカ国民の自信が今や危機に瀕していることを訴えました。

1970年代は、幻想としての西部開拓(ウェスタン)が、まさに行き詰まりを迎えた時代なのです。

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物語の中盤、ブロンコ・ビリーの一座は、客が持ち込んだ爆竹が原因で、ショーのためのテントを焼失してしまいます。ウェスタンを演じるための場所を、火事で失う。
このストーリーは、1980年を迎えるアメリカ社会においては、非常に示唆的です。その後、どうにか彼らが手にいれた新しいテントは、慰問先の精神病院で、患者たちが作っている大小の星条旗を張り合わせたものだというのも。

病院で作業を行う患者たちを見て、一座のメンバーが、「俺たちも彼らも変わらない」とつぶやきます。いわば、彼らは社会の中において、自分たちの居場所を失い、生き方を見失った、言い方を変えれば、自分が何者か、アイデンティティを喪失した者同士です。
一方で、社会全体に目を向ければ、アメリカとは何であるのか、国家としての立ち位置が揺らいでいる。

そのような時代の中、継ぎはぎの星条旗の下で、ブロンコ・ビリーの一座は、今日も、作り物の西部、もはや失われたアメリカの理想を演じつづけるのです。


#アメリカ #映画 #映画レビュー #映画批評  

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