『ダンケルク』★★★☆
デミアン・チャゼル監督の『セッション』が、ジャズのクラスを舞台にしながらも、音楽の映画ではない(”ジャズ”という賭け金を奪い合うフィルム・ノワールである)ように、この『ダンケルク』も、第二次大戦中の戦地を舞台にはしていますが、戦争を描く映画ではありません。
『ダンケルク』に最も近い戦争映画を選ぶとすれば、スピルバーグの『宇宙戦争』でしょう。実際、『ダンケルク』と『宇宙戦争』の二本はとても良く似ています。
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この二本が共に描くのは、迫りくる得体のしれない巨大な力と、為すすべなく逃げ惑う群衆。その中で発生するスリルとサスペンスです。
得体のしれない巨大な力は、『宇宙戦争』では宇宙人のロボットであり、『ダンケルク』ではドイツ軍の爆撃機です。
もっとも『宇宙戦争』については、宇宙人をナチのメタファー(その攻撃を受け、灰となる人類はユダヤ人)と捉える論評もあるので、そう考えれば、共にドイツ軍に違い無いのですが。
重要なのは、そのどちらもが、人格(感情)を読み取れない、物語の中において、暴力によってスリルを生みだす、純粋な”装置/仕掛け”であるという点です。
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『ダンケルク』では、周囲を包囲され、浜辺で救助を待つイギリス軍は、常に上空からのドイツ軍の爆撃機の一方的な攻撃に晒されています。
その間、爆撃機のパイロットはおろか、一人のドイツ兵もスクリーンに登場しません。手の届かない場所から人間を襲う、無機質な爆撃機。
それは『激突』のトラックや、『ジョーズ』の鮫と、なんら変わることの無い装置です。
『ジョーズ』のテーマが、鮫の生態や自然環境の破壊でないのと同様、戦争の意義や本質といったものは、『ダンケルク』のテーマではありません。戦争映画では無いというのは、こうした意味合いにおいてです。
巨大な力の前で右往左往する人々をスリリングに描くパニック映画、その認識が『ダンケルク』を評価する前提にあるべきでしょう。
では、パニック映画として『ダンケルク』を観た場合、やはり監督として、クリストファー・ノーランは、スピルバーグには遠く及びません。
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この映画においては、3つの時間軸の異なるエピソードが並行して展開されます。
・襲いくる爆撃の下、救助を待ち続ける兵士たちの一週間。
・燃料メーターが故障し、残量が分からないまま飛び続けるイギリス空軍のパイロットの一時間。
・イギリスからダンケルクへ、救助に向かう民間船の中で起こる、一日の出来事。
どれもが、独立した一本の映画として成立しそうなエピソードです。
しかし、それらを絡み合わせることが、各々の緊迫感を高める相乗効果となっていません。
かえって、度重なる時間軸の移動が、観客の集中力を途切れさせ、個々のエピソードにおいても、そのスリル・サスペンスを失速させる結果となっています。
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時間軸の異なるそれぞれのエピソードが、クライマックスにおいて初めて重なり、同じ時間・場所で終結するという構図は面白いのですが、穿った見方をすれば、一つのエピソード/シンプルなアイディアを膨らませ、映画として魅せる力量の至らなさを、奇抜な構図でごまかしているようにも思えます。
逆に「巨大な鮫に襲われる」というアイディアだけで、一本の映画を作れてしまうのがスピルバーグです。更には、起承転結という物語の流れの中、”起承”の繰り返しのみで、映画を作れてしまうのも、またスピルバーグです。
物語の展開ではなく、演出によるスリルとサスペンスだけで観客を魅了する。その手腕が存分に発揮された『宇宙戦争』は、余りにあっけない”転結”さえも、パニック映画のピュアな傑作として、その魅力を浮き彫りにする要因となっています。
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確かに、幾何学的にデザインされた美しいショットの数々にハッとさせられる場面も度々あり、それはクリストファー・ノーランの稀有なセンスだと思います。
(敢えて比較するのもためらわれますが、スピルバーグにショットを期待するのは野暮と言うものでしょう。)
しかし、そのセンスはいわばファッションです。そのファッションをまとう映画の肉体が、すこし脆弱であったのではないでしょうか。
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