その「やりたいことをやればいいじゃん」は誰のための言葉?
「やりたいことをやればいいじゃん」
この言葉が今日のテーマです。
先日「#noteの種」としてのこちらの内容をFacebookに投稿しました。
「やりたいことをやればいいじゃん」
そういう趣旨のことを誰かに伝えたことがあるすべての人に問いたいのです。
「やりたいこと」って?
「やりたいことをやる」って?
それってつまりどういうことですか?
その言葉は受取手との間で共通言語として機能してますか?
コメントをくださった皆さん、ありがとうございました。
◆やりたいことをやれるのは当たり前じゃない
今回「やりたいことをやればいいじゃん」という言葉のことを書きたいと思ったのは、私自身が仕事の環境の変化に見舞われたから。
実は6月から急に仕事が多忙になりました。平日は毎日終電間際まで残業し、土日もどちらかは出勤する週休1日体制に。
やりたいことをやりたいようにやれる状況ではなくなったのです。
今はだいぶ解消されていますが、一時期は、2枚目の名刺的な課外活動も、読書も、ブログの執筆も壊滅的な状態になりました。
そんな中、ふと終電に揺られながら思いました。
自分は、今までどれくらい多くの人に『やりたいことをやればいいじゃん』と伝えてきたんだろう……。
その人たちの中には、今の自分のような状況で『んなこと言ったってできないよ!』と思った人もいたんだろうな……。
研修や勉強会で講師を務めたとき、雑誌に記事を書いたとき、日々書くブログの中で。ことあるごとに「やりたいことをやればいい」と伝えてきた私自身が、思うようにやりたいことができない。
あ、やりたいことをやれるのは当たり前じゃないんだ
そう思ったとき、「やりたいことをやればいいじゃん」と言う人の意識と、言われた人の心の動きについて、もっと丁寧に、ゆっくりと考えたみたいなって思ったんです。
だから今日は、そのことを書きます。
◆伝える側の想い
誰かに
「やりたいことをやればいいじゃん」
そう伝えるとき、そこには必ず文脈があります。
目の前で仲のいい友達が仕事をやめて海外留学しようか悩んでいる。
「ねぇ、どうしたらいいと思う?」と問いかけられて「やりたいことをやればいいじゃん!」と言えるのは、二人の間に関係性が築かれていて、かつ問われた側にもある程度の覚悟があるからです。
そこにはきっと、友だちを応援したい気持ち、不安を拭い去って背中を押そうとする気持ち、どんな助言をしても自分の足で人生を歩むであろう友だちへの信頼、そして他者の人生に影響を及ぼす怖さを受けて立つ覚悟、そんな気持ちが込められています。
一方。
職場の後輩が夏休みの予定をあーでもないこーでもないと考えている。
「先輩、夏休みって何したらいいっすかねー?」と問いかけられて「やりたいことをやればいいじゃん!」と言うときは、関係性や気持ちはそれほど意味を持ちません。
そこではきっと、自分で決めたらいいじゃんと突き放す気持ちが成分多め。突き放してはいるけれど、そもそも後輩もそれほど真剣な対応を求めていないので、両者のコミュニケーションは安定と平穏が保たれます。
Facebookでの「#noteの種」の投稿へのコメントを読み、そして自分なりに振り返ってみたとき思ったのは、上記のような例とは異なり、伝える側と受け取り側の想いや状態が捩れていることがある(ギャップがある)らしいということ。
◆伝える側と受け取る側のギャップ(捩れ)
友達の海外留学と後輩の夏休みは、いずれも伝え手と受け手のバランスが合っている状態。ガッツリ相談したい人にはしっかり背中を押して、軽い世間話をしたい人には軽く受け流す。
でも、
「やりたいことをやればいいじゃん」
こう言うと、結構な確率で
「やりたいことなんてない」
「やりたいことが見つからない」
と返されます。
「#noteの種」の投稿をしたときにも
文脈もあると思いますが、その言葉を言われると、『わたしの“やりたいこと”って…なんだ?』と固まってしまう
というコメントもいただきました。
背中を押そうと思って言っているのに、目の前の相手には「やりたいことがない」。
こんな風に伝え手と受け手の間にギャップがあることも。
新型コロナで世の中の様子が変わる前、働き方改革で残業できず会社を追い出され、真っすぐ自宅にも帰れない会社員を「フラリーマン」と呼んだりしましたが、彼らのような人たちに「やりたいことをやればいいじゃん」と声をかけると、恐らく
「やりたいことなんてない」
「やりたいことが見つからない」
だから、公園やインターネットカフェで時間をつぶしているんだと言われそうです。(今、彼らはどうしているんだろう?)
◆「やりたいこと難民」の時代
今って「やりたいこと難民」の時代ですよね。
従来の働き方改革に加え、新型コロナの影響による通勤時間の短縮、オンラインでのコミュニティの浸透、飲み会など会合の減少などで、可処分時間が増えている人は多いのではないでしょうか。
それに加えて、人生100年時代、VUCA(もう古いかも?)、終身雇用の終焉など様々なキーワードが登場し、職場の外での活動や副業(複業)の必要性も徐々に知られるようになってきました。
可処分時間が増え、職場の外での活動等が重要らしい……。
「でも、やりたいことなんてないよ」
そんな声を聴くことは少なくありません。
自然体では「やりたいこと」を見出せていないけど、世の中の雰囲気で何となく「何かやらなくてはいけないんじゃないか」、そんな風に感じているやりたいこと難民の人たちにとっては、
「やりたいことをやればいいじゃん」
という言葉は、少し鋭すぎるのかもしれません。
伝えてに傷つける意図はなくても、言葉とは常に受け取り手のもの。受け取り手が傷つけば、それは「人を傷つける言葉」になるのです。
◆マリーアントワネットにならないように
「パンがないならケーキを食べたらいいのに」
無知と傲慢の象徴のような言葉ですが(史実かどうかは知りませんが)、「やりたいことをやればいいじゃん」と言うときも、知らないうちに無知で傲慢になっていないか、少し考えてもいいのかもしれません。
「やりたいことをやればいいじゃん」という言葉を操る人は、私も含めて「やりたいことがある人」であることが多い。それはいわば「持てる側の人」の言葉。
でも、世の中にはフラリーマンじゃなくても
「やりたいことなんてない」
「やりたいことが見つからない」
という人はたくさんいます。
やりたいことがある人はあまり想像する機会もありませんが、やりたいことがない人がやりたいことを見出すというのは、それなりに時間と労力を要するものだと私は知っています。
そして、その時間と労力を捻出できない人も少なくありません。
◆それでもやっぱり「やりたいことをやればいい」
3ヶ月間のやりたいことをやりたいようにやれない日々を過ごして。
私は「やりたいことをやればいい」というとき、一緒に「どんなに忙しくても1日にたった15分間でも確保できないほどですか?」と問いかけます。
そのときにその15分間を確保できないとしたら、それは「やりたいこと」ではないのだと思うんです。少なくともその時点の自分にとっては。そして私はこの3ヶ月間、その15分間を確保できない日々が続きました。
一方で、それが苦痛だったかというと、実はそうでもありません。
仕事はメチャ大変でしたが、逃げ出したいほど苦しいとは思わなくて、むしろ心のどこかで楽しんでさえいました。
つまり、この3ヶ月間、私にとって2枚目の名刺よりも読書よりもブログよりも「目の前の仕事が”やりたいこと”だった」ということなのかもしれません。やりたいことで朝から終電まで埋め尽くされて、帰ったらグッスリ寝る。ある意味、健康的。
「やりたいことをやればいいじゃん」という言葉は、他者にかける言葉としては丁寧に扱う必要がありますが、「やりたいことをやればいい」ということそのものは変わらず一つの真理だと思っています。
真理だからこそ、人が言葉として扱うと人を傷つけてしまうことがあって、扱い方に気をつける必要があるのかもしれません。
私は3ヶ月間、仕事以外のことはほとんど力を入れられませんでしたが、結局のところ、やりたいことをやっていた3ヶ月間だったみたいです。
この3ヶ月間の中で、私が誰かに「やりたいことをやればいいじゃん」と言われたら、きっとモヤモヤしたと思います。時間がなくて出来ないよ! とか、心の余裕がなくて出来ないよ! とか。
でも、それは私自身「仕事に没頭する」ということが「やりたいこと」(少なくともこの期間の中では)だと気付いていなかったから。もし気付いていたら笑顔で「いや、やれているから!」と答えられたかもしれません。
「やりたいことをやればいいじゃん」
「やりたいことをやったもん勝ちだよ」
「自分の人生、やりたいことやってなんぼだよ」
「あなたがやりたいことをやりなよ!」
「やりたいことをやるのが一番いいよ」
言い方はどうであれ、その言葉がどう受け止められるのか、目の前の人のことをよりよく知るよう耳を傾けることが大切です。少なくとも私はそのことに気が付きました。
自分に「やりたいことがある」ということを当然のことだと思わず、目の前の人が「やりたいこと」を見出せないことの意味と理由にも想いを馳せ、この言葉を扱えるようになれたらいいなと思うようになりました。
それはこの3ヶ月間で収穫できた小さな果実。
そしてやっぱり「やりたいことをやればいい」。
但し、「そうは言っても……」と思う人もいていいし、そういう人がいたら私は応援するし、ときとして必要な支援をさせてください。
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