人が死んでる
17:21〜17:51
シャワーを浴びていたら貧血で倒れそうになった。ショック死の話は沢山聞いているけれど、今この浴槽で死んでも誰も気づかないんだな、と思った。
『マラーの死』だ。
フランス革命でジャコバン派だったジャン=ポール・マラーが暗殺されたシーンである。市民の味方であったはずなのに恐怖政治に傾き沢山の独裁者が断頭台に消えた。
暗殺といえば安倍晋三元首相である。統一教会絡みで恨みを買い暗殺されたらしいが真偽の程は分からない。
未だに人間の世界では世を正そうとすると死者が出るらしい。
赤木さんはどう考えても正しい主張をしていたのに自死を選ぶもその事実すら揉み消されようとしていた。
日本だけではない。
パレスチナの虐殺、ウクライナ侵攻。
どちらも犠牲になるのは権力を持たない人々だ。
私は兎に角よく分からない。
社会が犠牲の元に成り立つのは確かだが、人が死ぬのがこれ程簡単な事なのが解せない。
虫を潰す様に何故、人間は人間を殺すのだろう。
そして、弔いの形もコロナ以降変化している。
普通に尊厳を守られた死は様々な手続きを経る。が、戦場で死ねば骨さえ返ってこないし、返ってきても石だとか、誰のものか分からなかったりする。
戦争がいい訳ないのに止められないし、無くならない。もっと小さな日常レベルの諍いを忌み嫌う日本人は戦争という大きな争いに抵抗し続ける事は難しいのかもしれない。
というか、疲れすぎている。
誰かの幸せも不幸せも見えすぎてしまうし、どうにかしたいと思っても時間も金も無いし、日々の業務に忙殺されている。景気は悪い。
余力や余剰が豊かさを産むのだな、という事をヒシヒシと感じる。
だからと言って自分の幸せを申し訳なく思う必要はないだろう。それは皆で不幸になれ、という五人組みたいなギスギスした空気を産みかねないだろうし。
フランス革命を描いた漫画、『ベルサイユの薔薇』で、町娘のロザリーの生活にオスカルが驚くシーンがある。具材も入っていないスープだけの食事に貴族のオスカルは衝撃を受け自己嫌悪に陥る。そして自ら貧しき人々の先頭に立ち、市民を守ろうとする。
現在のSNSによる構造はそれに似ている。身分制度がハッキリ見えてきたのである。士農工商が廃止されて久しいがグローバル社会に於いて地球上の情報は、誤解を招くかもしれないが可成りフラットに均質化されている。英語が分からないとアクセスしようもない部分が格差になりつつあるが、地球上レベルの格差を認知できる様になった、という新たな不幸。そして見えたところで全知全能でもない人間は対処しようもないだろうという冷笑と諦念に苛まされる。
神も仏も信仰できず科学の残酷さも露呈している今、どうやって生きていけばいいのかよく分からない。そもそも生きている事自体間違っている気もする。しかし、それを決めるのは自分ではないだろう。安楽死も現実味を帯びてきた。
考え続ける事だけが今できることだ。
2024/03/27
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