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夜明けはきっと来るから、ね。【しまさんの読むラジオ】
おばんです。ごきげんよう。
最近、また暗いニュース続き(そもそもニュースを見ないようにしているくらいには)に思います。
ふらっと、ラジオを聴いていたら、こんな曲が流れてきました。
上白石萌音「夜明けをくちずさめたら」
(いきものがかりの水野さんが作詞)
女優として活動している上白石萌音さんの、歌手としての曲です。
NHKの「みんなのうた」でも歌が登場しており、そこに、こんなことが書かれています。
どんなに離れていても、どんなにすれ違っていても、きっと同じ月を見ている…いつか優しさはつながって、共に夜明けを迎えられる日が来る…と願う気持ちをしっとりとしたバラードにのせてお届けします。
この記述の通り、今、「Stay home」とか「おうちで」とか「孤独」とか、そういったキーワードがたくさん並ぶ時代において、僕らがつながれることってなんだろう?つながったとしたらそのゴールは何だろう?ということを問いかけ続けて出来上がった歌詞なんだな、と感じました。
夜明けを口ずさめたら、いつかつながれるのかな
歌詞の歌いだしに、このようなフレーズが選ばれています。
誰もがひとりぼっち
やりきれないほど
かなしみがあって
家族でも、パートナーでもいない限り、いやもしかしたらそれらがいたところで「誰もがひとりぼっち」になれてしまう、言い方を変えれば「ある程度ひとりぼっちでも生きてける社会を作った」という方向が正しいのかもしれません。
この場合の「ひとりぼっち」というのは、客観的に「1人でないこと」でなく、主観的に「独りでないこと」であって、そばにいる人が頼れなかったら、愛せない(愛されない)対象だったら、結局「ひとりぼっち」であることに変わりはありません。
「寂しさこそぼくらのきずなさ」
その、「ひとりぼっち」という状態であっても、例えばパートナーが居るならば、何かでつながれていれば、と思うんです。この曲では、その「つながり」の紐として「寂しさ」を出しています。
以下、その「つながりの紐」としての「寂しさ」について、引用しつつ書いてみます。
きみは月を見てる
涙に負けないように
誰かの手に愛がやどること
願ってるんだ そうだろ
このフレーズだけで、「遠くにいる君が、月を見上げている。涙がこぼれないように、そして(僕の)愛に包まれていることを求めているんだろ、きっとそうでしょ?」という言葉が聞こえてくる気がします。特に、「そうだろ」と念押しをしているのが印象的です。
そこに合わせるように、
僕も月を見てる
きみとおなじ月を
寂しさこそぼくらのきずなさ
夜明けはきっと来るから
「そう、僕もそうしてるんだ。君が見上げているように。”君に会えない寂しさ”は僕も君も同じはずさ」、と話しかけています。
「ひとりぼっち」という状態に強く紐づく気持ちの一つとして、「寂しさ」があると思います。
その「寂しさ」を感じていることは、自分だけじゃなくて、会いたいけど会えないあなたもそうでしょ?と問いかけているフレーズです。「寂しさ」というものは、独りだと感じたときに襲われる感情ですが、それさえも「きみもそうだよね。その寂しさこそ”ぼくらのきずな”なんだよ」とささやきかける、そんな絵が思い浮かぶフレーズです。
あなたに会えない(=物理的な距離は遠い)、
けどあなたと同じ気持ちになれている(=心理的距離は近い)、
という対比が印象的です。
これが、「つながりの紐」としての「寂しさ(という感覚)こそが僕らをつなぐ、共通するもの」としてとらえられるわけです。
そういえば、似たフレーズを坂本九の「見上げてごらん夜の星を」に見た気がします。
手をつなごう ボクと
追いかけよう 夢を
二人なら 苦しくなんかないさ
見上げてごらん 夜の星を
小さな星の 小さな光が
ささやかな幸せをうたっている
見上げてごらん 夜の星を
僕らのように 名もない星が
ささやかな幸せを 祈ってる
むしろ、「夜明けをくちずさめたら」自体がこの曲を多少リスペクトしている?ようにも感じます。
「僕ら二人一緒なら、苦しくなんかないさ」といいながら、「星空にあるような夢や幸せを祈っている」のが、「見上げてごらん夜の星を」。
一方で、遠くにいる君が、(多分)僕と同じように、「夜の空を見上げてる、その寂しさこそがきずなだよ、そうだろ?」といって、「いつか夜明けが来るのを待つ」のが、「夜明けをくちずさめたら」。
「夜空を見上げている」こと自体は同じでも、夜空に対する印象が全然異なるのが印象的です。つながり方が全然違うというか。
「夜明けをくちずさめたら」では、さらに歌い進めていくと、こんなフレーズに出会います。
「みんな 愛されたいと言えずに生きている」
どうか もう
震えるその手を
自分で責めたりしないで お願い
みんな みんな 愛されたいと
言えずに生きている
個人的には、このフレーズがすごく好きです。
「みんな 愛されたいと いえずに 生きている」
真理かどうかは全く無視したうえで、自分自身が感じていることだよなあと直接に思ったんです。
今時分、誰もが誰かを傷つけてしまう可能性がある、だからお互い離れて。
そんな時代になってしまったことによって、悲しみに暮れる人がいる。
その前のフレーズで「震えるその手を 自分で責めたりしないで」と言っているのは、「僕」から「君」に対して、会えない、愛されない悲しみで震えているのは、(誰のせいでもないから)責めないでほしい、ということなのです。
「みんな、それ(愛されること)は求めていることだし、僕も求めているんだよ、わかってるんだ。だから責めないで」と。
そのニュアンスが含まれている証拠に、「僕の願い」を歌いきって、締めくくられるのです。
みんな月を見てる
誰かを想いながら
いつの日かとなりに座って
夜明けをくちずさめたら
みんな、誰かを想いながら(寂しい思いを紛らせ、誰かとの寂しさをシェアしながら)、月を見てる。僕らもそう。
だから、いつか、「君のとなりにすわって 夜明けをくちずさめたら」なあ。夜明けを迎えていけたらなあ。
最後の願いは、実際の夜明けを迎える、という意味と、このような時代が過ぎ去って、寂しさの「夜明け」を迎えたい、という意味とで、混ざり合っているのです。
遠く離れたところで、僕も、君も、月を見てる。その寂しさこそが「きずな」だよ。そうだろ?
でも、この寂しさも、本当は終わってほしい。いつか、夜明けがきて、君のそばで、夜明けを迎えられたらな。
いつか、一緒に、夜明けを口ずさめたらなあ。
今になって、「つながり」があって、それが大事な僕らの「希望」になっていく、そんな思いと祈りを感じた曲です。
今日、3.11。早くも11年。
奇遇にも、このnoteを書き出したのは10日前。
この日に合わせて、投稿しようと思い、書きあがったのは、3.11当日。
「夜明けをくちずさめたら」のフレーズが、この日の祈りの一つにも感じられました。
願いが叶うのなら
はぐれたひとにも
しあわせが落ちて
ぬくもりが生まれて
優しさがつながれて
またいつか逢えたならいい
僕らは、「優しさでつながれる」生き物でありたい、そう思いました。
「夜明けを口ずさめたら」全歌詞はこちら▽
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