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永遠なんて【しまさんの読むRadio】
久しぶりです。文を書くという自己再生がしたくなったので戻ってきました。
Twitterに、ブルーハーツの曲が仏教的だ、というのが流れてきたので、書かざるを得ないと思いまして。
私もこの曲大好きです。どのアルバムにも収録されていない音源です。
— しまさん@お寺と社会に絆を (@shima_sun_0) May 29, 2021
”ダイヤモンドの結末は
宝石屋にも分からない
100年経っても変わらないのか
100年以内に僕は死ぬ
永遠なんていらないよ
僕が欲しいのは 今”
この曲が底流に流れているのがクロマニヨンズの「生きる」です。 https://t.co/XNd2XU7HN3
「ほんの少しだけ」
このツイートでTHE BLUE HEARTSの「ほんの少しだけ」という曲は、CDなどの円盤になっておらず、「未発表曲」となっています。
なので、音源が上記YouTubeのようなライブ音源の録音しかないという…
そのため、歌詞も大手歌詞検索には載っていません。
とはいえ、ちゃんと載せているものがあったのでそちらを引用しつつ、思ったことをつづろうとおもいます。
永遠なんて、あったところで
この曲の歌詞は、スパッとまとめると「永遠なんてあったところで、僕は永遠に生きられないんだから、いらなくね?」です。
言いたいことはこのワンフレーズに集約されています。
永遠なんていらないよ 僕が欲しいのは今
生きている間だけ
ほんの少しだけ
「永遠に」とか「ずっと」とか、そんなもの「ないよ」ではなく、能動的に「いらないよ」。
強い意志を感じるそんなフレーズです。
仏教の中心の教えには
「諸行無常」…すべての現象・物はずっとそのままではいられない(=永遠にずっと同じ状態なんて存在しない)
というものがありますが、その「存在しない」以前に「いらないよ」と受け取り拒否をしているのです。ここが興味深いです。
「永遠なんていらないよ」。
あったところで、その「永遠」を享受するって人間はほぼ無理で、なんなら「いつ死んでもおかしくない」時代に生きる中で、能動的に「受け取り拒否」をする。
永遠があったところで、元気な時間、今という時間の方が楽しいし、そもそもその「物」が永遠であっても、それを持つ人が永遠でなければ、価値を発揮できる時間がちょっとしかないと考えると、最初から「受け取り拒否」をして、「今」の価値を最大にした方がいいだろ?というメッセージととれます。
僕も「今」にこだわるわけ
以前、こんなことをnoteに書きました。
プログラムの時に言った「今」には多くの意味がある。
それは、
「今この場」
「今このとき」
「今の人生」
「今訪れた悲劇・喜劇」
「今この環境」
「今付き合っている人たち」
「今聞いている曲」
「今食べているモノ」
「今呼吸している自分」
など、まさにすべてに通じる言葉だった、それを感じ取れることが豊かに生きていることだと僕の結論に至ったわけです。とはいえ、すべからくできているわけではないし、この「今」を最高なものにするためにいきているとも思います。通しての結論が「豊かに生きるとは、今である」と。
僕は、「永遠」を受け取り拒否できる、まではできなくても、「今を大事にする」こと自体はできるんじゃないか、と思ったのです。改めて。
だって、今目に見えているもの以外は「諸行無常」、そのままではいられない以上、まずは「今を大事にして生きていく、楽しむ」ということ以外できない、と思うのです。
改めて、Twitterを見て、そんなことを、仏教的な話ともかかわらせて書いてみました。
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