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あなたの底流に指を浸す
会ってみたいと望んだこともあったがまさかお会いできるとは思わなかった方と、諸般の事情を鑑みればこの先お会いすることもないだろうと決めこんでいた方と、漠然とした予感の訪うままにそのうちお会いできるのではないかと感じていた方と、いつかお会いすることもあるやもしれないがずっと先のことだろうと考えていた方と、それぞれお会いした昨年だった。目を剥くほど職場が近かったという驚愕が、大学の同窓だったという予期
もっとみる流血させないようにそれをひらく
時のおもてには、無数の小さな傷がある。暗礁に乗りあげてえぐれた、北風になぶられて歪んだ、幾億もの星影に穿たれた、それでも流れることを求められ、止まることの許されなかった容易ならざる日々の徴。ことわりもなく、深夜にその傷はひらく。あることすら知らなかった、いつ出来たのかも分からない傷の中心から、背を向けて遠ざかる二人のように、左右に向かってゆっくりと。しんと澄ませた耳が、かすかな悲鳴を聴く。始まり
もっとみる始まりは怖れだったのか、それとも哀しみだったのか
過去が見せるのは、常に横顔だ。二度と正面から見ることのできない位置にひっそりと立ち、覗きこもうとすれば邪険に振り払われる。過去が語ることは、いつもあったことの一部だ。残りは黙秘すると決めているかのように頑なで、多くを語らぬまま静かに口を引き結ぶ。過去を入れた鞄の中は、幸福よりも後悔の方が多く詰まっている。時を経るほどにその重みを増し、運ぶ私の手の感覚を容赦なく奪う。過去が歌う歌は、埃を積んだ傷だ
もっとみるHide and Seek
最初に覚えた英単語は、Hippopotamusだった。ぽんぽんと歩いて、ぴょんと跳躍するようなイントネーションが楽しくて、ヒッパパトマス、ヒッパパトマス、と体を弾ませながら繰り返した。肩まで届くまっすぐな髪を、れんげの花のように膨らませながら。あいつのことだよ、と父は遊泳するカバを指しながら言った。近すぎる水平線のような背中を、指先でそっとなぞるようにして。いかにも呑気な姿の、惚けた顔をしたカバ
もっとみるDrive Drove Driven
職業的な運転手をしたことはないが、日常的な運転手のキャリアは長い。運転免許証をとったことを、頼まれもせずほうぼうで吹聴してくれた親友のおかげで、口さがない女子四人で旅した白神山地への往路復路を、頭から湯気を立てた新人ドライバーの私が運転する羽目になったのを皮切りに、大学のコンパで泥酔し、渋谷で最終電車を逃した友を、昭和の遺産というより絶滅危惧種と言い表した方が適切なおんぼろアパートまで送り届けた
もっとみるStood on Aillte an Mhothair Screaming "Give me a reason"
感情をフラットに保つ必要のある時期があった。吐く息よりも白い私の両手を包みこみ、薄氷で覆われた両目を覗きこみながら終始おだやかな声でそれを要請したのは、数年単位、あるいは生涯そうあることを私に余儀なくさせるような、凍てつく風の吹きすさぶ十二月の出来事だった。ここに留まるために私は頷いた(ほんとうに留まりたかったのだろうか?)。水平線の向こうまで浚われないように(いっそ浚われたいと願ったのではなかっ
もっとみるまた、手紙を書きます
あなたは、と母が大人になった私にむかって幼いころの私を語るとき、字を書きはじめるのが早かった、と必ず言ったものだ。それは、私の祖父である母の父から受け継いだ資質、と母はかたく信じていた。福岡県の、とある中学校で教頭をしていた祖父は、帰宅するとすぐに、仕立てのよい久留米絣に着え、庭に面した静かな座敷で一人、熱燗を飲みながら本のページをめくっていたという。少しウェーブのかかった前髪が額にかかる角度で、
もっとみるむしろ言葉はあり過ぎる
病気が個性という考え方は押しつけで、自分の差別意識を隠しもしないで多様性に理解があるような風を吹かせる人の常套句、といつにない剣幕で娘がまくしたてたのは、難病を持ちながら歌手を目指すあなたの話を聞きたいです、という唐突な申し出がSNS経由で到着したときだった。
液晶画面に並ぶ罪のない文字に向かって、「絶対に嫌です」と彼女は言い放った。苛立ちながらギターのネックをぐいっとつかみ、しばらくそれを爪弾き
安心して泣ける場所がほしい
母さんが泣いているのが聞こえたのは、そんな夜だった。部屋から部屋を歩きながら、母さんは泣いていた。僕には聞いたこともない泣き方だった。僕は大声を上げたにちがいない。母さんが部屋に来て、蒲団を直してくれたからだ。「大丈夫、何でもないのよ」と母さんは囁いた。「いいからお休み」。母さんはベッドの足側の、窓の外が見えるところに腰かけて、静かに泣いた。じきに、母さんの肩がふるえ出した。僕は寝たふりをしていた
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