小説には無限の世界が広がっている
いつからか、小説が読めなくなった。
本を読むことが好きなのは昔から変わらず、小学生の頃は図書室中の本を読み尽くしたいほどの読書熱で、図書委員になるほどだった。読めるものはなんでも読んでいたし、なんなら電話帳でも読んでいた。そんな中、日常に何の刺激もない田舎の女の子にとっては、見たことのない世界に連れて行ってくれる物語がすごく好きだった。内容はもう覚えていないが、『十五少年漂流記』にわくわくし、『ズッコケ三人組』をずっと知っている友人のように大切に思っていた。
小説の中に住む登場人物は皆、本当に実在しているような気がして、猫になる女の子も、主人公と時間の流れが違う女の子も、すい臓を食べたい女の子も、みんないてもおかしくなかった。『流れ星が消えないうちに』の加地君は確かにここにいて、会ったこともない彼を想い、主人公と一緒に泣いた。『流浪の月』の文と更紗は今もどこかでひっそりと暮らしていて、『美しい距離』に出てくる人たちは奥さんのことを思い出しながら生きている。
いないけどいるはずの人たちが、ないんだけどあってもおかしくない世界が小説にはたくさん散らばっている。
そんな小説を、最後まで読めなくなったと気づいたのは最近のことだ。本を読むことをやめたわけではなく、いつの間にか手に取るのは自己啓発へ。空想の世界は小さくなって、代わりに教養や常識やノウハウが入ってくるようになって、なんとなく、少し、つまらない人間になってしまったような気がする。読めなくなったのは、想像力が昔よりなくなったことに他ならない。
とはいえ、世の中には読みたい小説が今も溢れている。積読もある。この先も、読書欲が消えることはないだろう。できれば、もう一度、あのワクワクを味わいたい。
最後まで読み切れなくても、積読になってしまっても、私はずっと小説が好きなのである。小説に、これからも夢を乗せるのである。