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長野に飛行機で行ったんだ。

ある日、突然祖母がそういった。

祖母が住んでいるのは群馬県で、過去に住んでいた場所も長野に飛行機で行くような距離ではない。「なーに言っちゃってんの!」とケラケラ笑ったけれど、心の中でちょっとした寂しさも感じていた。

***

祖母の様子がおかしいと聞いたのは、4年ほど前だろうか。
車の事故を起こしてしまって、免許を返納せざるを得なくなった祖母は、コロナ禍も相まって、どんどん家に篭るようになった。

少し離れて住んでいる大叔母が気にかけて時々来てくれていたらしいが、祖母は自分の変化に気づきながらも、ずっと意地をはっていた。離れて暮らす子どもたちに心配をかけまい、と思っていたに違いない。でも、見かねた大叔母が連絡をくれたらしかった。

それから、仕事の休みの日に時々祖母の家に行くようになった。
ご飯をあまり食べている様子がなく、部屋も薄暗い。なんとか明るい雰囲気にしようと、いろんな話題を振ってみたり、物理的に部屋も明るくしたりしてみたけれど、祖母はどうも後ろ向きになりがちで、次第に同じ話を繰り返すようになり、話も噛み合わなくなってきた。いやでも、認知症だと認めざるを得なかった。

その年の祖母の誕生日。
ついに脳外科の病院に入院することになった。

祖母の認知症は脳の炎症が悪さをしていることが原因だという。両親の話では、正直ここから良くなることは難しい。症状を抑えたり、進行を遅らせるための入院のようだった。それは、今後祖母がもっと会話ができなくなって、私のこともいつか忘れてしまうんだという覚悟を決めねばならないことを指していた。

入院をしてからも、コロナ禍とは残酷なもので面会は一切できなかった。特に感染者の多い地域で働いていた私は、入院病棟に入ることができなかった。病院の駐車場まで一緒に行って、ただ待つのみ。両親も荷物を看護師さんに渡すくらいで、運が良ければ顔を見ることができるくらいだったらしい。

そんな中、オンライン面会があると母が教えてくれた。
早速メールで申し込んだが、なかなか返事が来なかったくせに、病院側はこの日に面会可能か明日までに返事が欲しいと言ってきた。随分勝手だなと思ったが、きっとあちらも慣れないことをしているんだと飲み込んだ。

その面会の時に話していたのが、タイトルのセリフだ。
その頃にはもう顔の認識が難しくなっていて、看護師さんに「お孫さんだよ」と教えられながらの会話だった。ふんわりした記憶ながらも、わかることを紡いで話をしてくれた。長野には友達に会いに行ったらしい。それはいいねと返した。

病院には症状により入院期限というものがあって、祖母にもそれが迫っていた。
大人たちは忙しい合間を縫って、施設を探し、見学に行くなどしていて、私にできることは何もなかった。

そんな私が唯一役に立てたかもしれないと思ったのは、祖母が退院後、一時的に家で過ごしている期間だった。祖母があまり動けなくなってから庭が荒れ放題だったのを気にして、母は時々庭仕事をしにきていた。

母からすれば、お嫁に来たお家。正直そこまでする必要はなかったかもしれない。でも、祖母は元々お花屋さんに勤めていて庭仕事も丁寧にやっていた。そんな庭が荒れていくのを見ていられなかったらしい。私も行ける時は、一緒に庭仕事をしていた。

偶然家族が揃っていた時、庭仕事をしていると、窓辺にやってきた祖母が庭を見ていた。私が近寄ると、「綺麗に花が咲いているね」と嬉しそうな笑顔を見せてくれた。父と叔父はリビングで今後の話をしていて、おそらく気づいていなかったと思う。私は母の頑張りが報われたこと、そして祖母が変わらず花が好きであることが嬉しかった。

やがて祖母は、施設に入った。
施設内では結構若い方で、笑顔が可愛い祖母は他の入居者さんからも可愛がられていたらしい。施設の人にもいつも笑顔で反応していて評判が良かった。私のおばあちゃんは、笑顔がピカイチなんだ!孫としてなんだか誇らしかった。

でも相変わらずコロナ禍は厳しく、緩和されない。
かなり距離を置いてマスクをしながら話しかけることしかできなかった。施設としてはそもそも外の人間が来ること自体が大きなリスクだし、その中で最大限考慮してくれたのはありがたい。

「でも・・・」と思う気持ちが何度も湧き上がっては飲み込む日々。次第に耳も遠くなり、声の力も弱くなった。最後に名前を呼ばれたのはいつだったか、もう思い出せなくて、これからもう呼ばれることもない。その現実に何度も泣いた。

でも悪いことばかりじゃない。
真面目な祖母は「いいおばあちゃん」なところしか、私に見せてくれなかったが、認知症のせいか、遠慮というオブラートがなくなりストレートな発言や適当な発言が増えて大いに笑った。

子どもが5人いると言ってみたり
(2人しか産んでない)
さっき長野までマッサージしに行ったと言ってみたり
(県外にマッサージしにいくとかリッチやん)
見舞いに来た父を「仕事をサボっている」と言ってみたり
(んなわけあるかーい!)

色々変わってしまったことは多いけれど、それでも祖母が安全な場所で、ご飯が食べられて、笑顔でいられるならそれでいい。じっくり時間をかけてそう思えるようになった。

最初の入院から、2年。
祖母の誕生日、母の提案で施設にお花を届けにいった。

びっくりしたよ、あんなにいい顔をするなんて。
本当にお花が大好きなんだね。

入院前、繰り返し話していたのもずっとお花の話だったね。
昔自分で作った作品が本に載ったこと、賞をとったこと、何度も何度も話してくれたね。あまり自分のことを語らないおばあちゃんがあんなに話すんだから、よっぽど嬉しかった、誇らしかったに違いない。

そんな祖母に、私の結婚式のブーケを作ってもらうのが夢だった。
叶わなかったし、最終的には私の好みになっちゃったけど、きっと「可愛いね」って笑ってくれたと思う。

それから季節が巡り、ゆっくりと症状は進んでいった。徐々に面会に行っても疲れて寝てしまっていることが増えた。あまりにいい寝顔だったから、申し訳なさそうにする施設の人に「もういいですよ」と言いつつ、思わず笑ってしまった。

そんな穏やかな日々が、ある日の電話で変わった。
病院に搬送されたという知らせが来て、スマホを握る手に力が入った。

この時入院した病院も基本面会禁止だったけれど、祖母は面会が許されていた。祖母は寝たきりで、目も開かない。スースー寝息が聞こえるだけの15分間。それでもこの数年で一番近くにいられた。それだけで泣きそうなくらい嬉しかった。

その後、奇跡的に施設に戻ったけれど、程なくして再入院。同じく目は開かず、よく寝ている祖母の頭上には、「絶飲食中」の文字があった。それをみたのが最後の面会だった。

長い長いお別れ期間だった。

名前を呼んでもらうこと
思い出話をしてくれること
こちらに笑顔をくれること
優しく声をかけてくれること

ちょっとずつ最後が増えていって、その度にさよならをした。

遺影に使われたのは、私が3歳の七五三の時の写真。
流石に古すぎない?と思ったけど、みんな納得の一枚だったらしい。初孫の初節句、眩しいくらいの笑顔だった。

贅沢はせず、コツコツ地道に。
朝は誰よりも早く起きてキッチンに立ち、辛い顔は見せなかった。でもそれが精一杯の見栄だったことも、知っている。本当は人並みに文句も言うし、頑固一点張りだったと大叔母がぼやいていた。

実はこの記録をnoteに残すべきかどうか、最初悩んでいた。
ここに書いたことが全てではないけれど、色んな感情が渦巻いて、色んなことがドミノのように倒れかかってきて、しばらくはうまく書けそうになかったから。

でも今年の振り返りをする時に、祖母の話抜きでは、振り返れなかった。
いつか時は終わってしまうし、その終わりを長い時間をかけてゆっくり別れを実感した大きな経験だったから。

あの時異変に気づいていれば。
あの時こんな話をしていれば。
あの時会いにいっていれば。

後悔はどうしたって尽きないけれど、そう思ってしまう自分ごと、まるっと受け止めることにした。否定せず、そのままを抱きしめて。

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おばあちゃん、こんにちは。
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志麻/shima
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