2019年、9月28日。
2019年9月28日 土曜日 天気:晴れ
ほぼ眠ることなく、朝を迎えた。約1年半ふたりで暮らした家から、自分の持ち物を選り分けて、ふたりの持ち物のうち欲しいものを選り分けて、ダンボールに詰めていく作業は、想像以上に体力と心を削った。
食器も、ブラインドも、ソファも絨毯も。ふたりの持ち物のほぼ全部がわたしの選んだもので、「なんでも君の趣味で選ばせる男なんて、なかなかいないと思うよ」と、こだわりの強いわたしに対する最後の嫌味が、さらに心を削った。
最安値で選んだ引っ越し屋は、前日まで来る時間がわからないシステム。朝一の9時前にやってくるということが、前日のお昼頃に決まった。
それを彼に告げると、「じゃあそれくらいの時間に、俺も出ていく」と言う。彼の引っ越しは来週のはずだけど、あたらしい家の鍵はもうもらったから、寝泊りはできるとのこと。最低限の寝具だけ購入したらしい。
8時半ごろ、引っ越し業者が3人でやってきた。部屋に残していくものと、持っていくものを指示すると、無言で「多いっすねー」という顔をした。ごめんね。しかも大半の段ボールが本だから、重いんだ、ごめんね。
2SLDKの広めの部屋に溢れかえっていた段ボールは、それでもプロ3人の手にかかればあっという間に片付いていく。段ボールに入らない、いびつな家電たちも、うまく箱に収められ、トラックの荷台に収納されていく。
「植物は保証できないんで」という言葉とともに持っていかれた、わたしばかりが愛でていた大事な観葉植物と、数回しか乗らないままパンクして錆び付いた、彼に買ってもらった黄色い自転車が収納されると、荷台の扉は閉まった。
現地集合を約束して引っ越し業者に挨拶を済ませると、マンションのエントランスから、彼が出てきた。
「じゃあ、俺もいくね」
予約してあったタクシーが目の前に到着した。
「うん、気をつけて」
車に乗り込む。
「処分する家具については、また連絡するから」
行き先を運転手に告げる。
「わかった。いままで、ほんとにありがとうね」
扉が閉まる。
車が発信する。
眉間のさらに奥に刺激が走る。
ちょうど3週間前に離婚を決めて彼に告げ、ちょうど2週間前に内見をして、その2日後に新居を契約して、ちょうど1週間前に家族ではなくなり、ちょうど昨日、近所の焼き鳥屋で最後の晩餐をして。
その間いちども涙は出なかったし、一方的に別れを決めたわたしが泣くのはマナー違反だと思っていた。
でも、車を見送るというのは、なんだか遠距離恋愛をしていた8年前が思い出されて、ね。
なんて。感傷に浸っている暇なんてないのが、引っ越しというもの。わたしも急いで新居に向かわなければいけない。アプリでタクシーを呼び出すも、一向に捕まらない。そうだ、ここはぜんぜんタクシーが捕まらない住宅街。
10分以上経っても捕まらないので、痺れを切らして家を出る。駅に向かい、タクシー乗り場で、アプリとリアルと、どっちが早いかとソワソワしながら待っていたら、目の前に一台やってきた。
新居の住所を告げて、ぼーっとGoogleマップの青い丸の動きを追っていると、LINEがきた。
さっき別れたばかりの人から、さっき一緒に連れて行ったハムスターの写真がたくさん送られてくる。
向こうの寂しさと、手持ち無沙汰感を感じながら、「いいカメラだね、さすがPixel」とだけ返した。
ここ半年くらい、彼との会話は目に見えて減っていった。でもLINEだけは、最後まで活発だった。かわいくとれたハムスターの写真を送ったり、あたらしく手に入れたスタンプを送ったり。
どうでもいい、ほんとにどうでもいい、ささいなことを伝えられる相手だった。
このハムスターの写真が、最後の、どうでもいいLINEになるのかもしれない。
世田谷のあたらしいマンションに着くと、もうトラックは到着していた。謝りながら、エントランスの鍵を開け、自分の部屋の鍵を開け、案内する。
片付けたときの倍速くらいのスピードで荷物は運び込まれる。11時前には引っ越し屋は去っていった。とりあえず持っていったブラインドと電気だけ設置して、12時前には一息ついた。
あっけないもんだ。
ひとの居住地なんて、こんなにあっさりと変えられる。
このあと、夕方くらいまでのことは、あんまり覚えていない。お昼はなにを食べたんだっけ?
新居には電気を設置する箇所が3箇所ある。わたしが持っていったのはひとつだけ。あたらしくネットで注文した電気が届くのは明日。部屋の中はだんだん薄暗くなる。
そんな部屋をほおって、外へ出た。
外部のイベントに登壇する仕事があった。この仕事を引き受けたときは、離婚も引っ越しも、まったく想定していなかったんだよな。自分のスピード感に感心する。
いつも通りの仕事モードの笑顔でイベントを終え、終了後に打ち上げに誘われたけど、断った。
「すみません、さっき引っ越しをして、帰って片付けないと寝る場所がないんです」
ごめん、嘘です。
家に帰るつもりはありません。
テレビもネットもない、電気も足りない部屋で、6年振りくらいのひとり暮らしのスタートを切るのはさすがに自信がなくて、友人の家に泊めてもらうことになっていた。
離婚が決まったときに真っ先に伝えたその友人は、渋谷の坂の途中にある居酒屋で待ってくれていた。予約をしていなかったからすぐには入れなくて、お店の前でビールを一杯飲み、中に入って日本酒を飲んだ。お刺身を食べた。
なにを話したかは、あんまり覚えていない。
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この同人誌マガジン『東京嫌い』の編集である林さんから原稿の相談があり、人から依頼されて原稿を書くなんてはじめてのことだったので、「やってみたい」という好奇心がまさって、二つ返事で引き受けてしまった。
東京にはコンプレックスも思い出もたくさんあるから、何かしら書けるだろ、とタカをくくってもいた。
というのが、8月末のはなし。
そして今日、9月28日。原稿の締め切りは9月いっぱい。
ここ数週間、原稿のことはずっと頭の端にあった。週末には「あ、テーマが降ってきた」と思っていくつか書き出してもいた。でもどれも、途中で筆が止まってしまう。
どうしようかなあと、ぼおっと考えながら、「そろそろ、この家に引っ越して1年経つな」とふと思いだして、Googleカレンダーを遡ってみたら、2019年9月28日土曜日の欄に「引っ越し」と書かれていた。
今日じゃん。
これはきっと天啓だ。この日のことを書くしかない。
ということで、1年前の日記を書いた。
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いまの恋人の家が元夫の実家と近いので、駅の周りを歩くときは、元夫や家族と鉢合わせするんじゃないかと、いつもドキドキしている。お互いにあたらしいパートナーを連れた状態で出会ったときのシミュレーションも、なんどもしている。でも、いまのところ一度も見かけたことはない。
東京は、思っているより広い。
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『東京嫌い(2020)』収録作品