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偶然、機上で出会った日本人

 学生のとき、ヨーロッパに行った話。(ちょっと、思い出話も絡めて)

 「ロシア」を越えていっても、「アメリカ経由」でも、格安チケットが同じ値段だったので、マイレージが貯まる「シカゴ経由パリ行き」のチケットを買った。

 成田の出発は2時間遅れとアナウンス。
まず、ゲート前で待たされて、さらに機内に入ってからも待たされた。

 天候による遅れ。
天候と言っても、空の上の気流の問題。当時、北太平洋路線には80本ものルートが設定されているけれど、実際に使われるのは推奨されるルートのみ。だから、そこをアメリカ向きの飛行機が数珠つなぎで飛んでいる。それも、日本からだけではなく東アジア全域からなので、混雑している時には5分間隔で飛んでいる。今なら「Flightradar24」でその様子を見ることもできる。

 その日は、その気流が悪く推奨ルートが恐らく1本しかなく、そのUnited便は2時間待った。恐らく管制からは、「推奨ルートなら3時間以上待ち。燃費の悪いルートなら15分待ちですぐ許可。揺れるルートなら2時間待ち」と選択肢を提示され、アメリカのエアライン一般のカンパニールールである燃費は同じだけど、揺れるルートを申請したはず。

 離陸しては見たけど、とんでもない揺れ。それも、ずーーーーーと続く。揺れが弱くなったのは、千島列島を遙かに超えて、さらに、アラスカも半分過ぎたあたり。最初は隣のお姉さんと話していた。
 「どちらに行きますか?」
 「ピッツバーグの大学でオルガンを学びます。」
と、同じ音大生同士、大枠からお互いに質問していた。だけど、そのあまりにも激しい揺れに、僕も彼女も頭からモーフをかぶって、そして僕は少しでも心を落ち着かせるため目を閉じた。でも、後ろの方の修学旅行の高校生達はトランプで盛り上がっていた。(若いってすごい!)

◆◆◆

 結局、経由地であるシカゴにも大幅に遅れて到着した。
アメリカは通過するだけでも「入国審査」を受けなければならないので、長蛇の列に並んだ。
 さすがに、2時間以上のひどい遅延に、航空会社から案内のお姉さんが大声で乗り継ぎのできない人がいないか、必死になって捕まえていた。明日の便にしたら、ホテルも出してもらえるそうで・・・。でも、その時僕は、その先、フランス経由でベニスでの約束があったので、絶対、乗継をしなければならなかった。

 アメリカ北部、5大湖のひとつ「ミシガン湖」の側にある、シカゴ・オヘア空港。全米でも大きな空港のひとつで、滑走路は7本もある。実質上、アメリカ最大の広さを持つ空港。

シカゴ・オヘア空港

 入国審査後、係の人に乗継のターミナルを聞いた。霞の先にうっすらとそのターミナルは浮かんでいた。約3km。荷物を持って地下通路を猛ダッシュ!動く歩道が設置されていたけれど、それに乗って、人をかき分けながらではとても間に合わない。
 ようやく、目的のターミナルについて、少しだけ時間があったので、売店で航空雑誌などを購入していたら、ドアクローズの時間だとアナウンスがあった。
 慌てて、また、ゲートまで走った。最後の客となった。
機内に一歩入ると、すでに僕以外の全員が座席に着き、彼らからの痛いほどの視線がこちらに集まった!!!そして、ひとつだけ窓際の席がポツンと空いていたので、僕の席はすぐにわかった。

 目立たないように小さくなって(もう無理です)、窓側の座席に、手前の中国人(香港人?)らしき人をまたいで滑り込んだ。すると、
 「日本の方ですか?
という、日本語!びっくりです!
 「シカゴ発パリ行」などという、到底、日本人が乗らない路線に、日本人がふたり、それも隣同士で並ぶなんて、奇跡としか言いようがない出会い。
 その初老のおじさんは、パリで学会に出席するため乗ったのだそうです。

 パリまでは約9時間。
いろいろなことを話した。ただ、直前の飛行機が大揺れだったので、疲れから大西洋上空はほぼ寝てしまいました。

 その人は末岡昇という、アメリカに住んでいる学者で、コロラド州立大学ボルドー校の教授でした。
(良い末岡先生の写真がない・・・家にあるのをそのうちアップします)

末岡昇教授(印象に一番近いもの)

 このとき先生の話で初めて「生物化学」、「遺伝子化学」というジャンルを知った。
 よく考えれば当たり前のことなのだけど、生物の「体」は炭素や酸素など、分子が結合してできている。なので、ミクロに見ていけば、皮膚の中に分子があり、原子があり、さらに素粒子まで遡れる。
 遺伝子といっても、結局は化学の世界の出来事に還元することができる。

 80年代のことなので、一般の人にようやく「遺伝子」という言葉が定着し始めた時期。そもそも、ワトソンクリックがDNAが2重螺旋構造になっていると発表されたのは1953年のことです。

 思い返せば、生物化学という用語を知る数年前、高3のとき。
クラスでもまあまあの成績の良かった友人が「農大」に進学すると聞いたので、それくらいの成績なら、現役で医学部に入れるレベルなのに、「なんで農業・・・???」と思った。
 ただ、当時の僕は無知でした。
それから、数年後、「遺伝子操作」という最先端技術が話題になり、日本での拠点は「東京農大」!でした。
 きっと、彼はどっかのタイミングで僕にその話をしたんだろうけど、未熟な僕はスルーしてしまったんですね。
 当時の高校「生物」の教科書には、ようやく「染色体」が登場していたくらいです。当時と現在の高校生が学習する内容が最も違うのは、この「生物」の分野です。
 80年代にはごく一部の研究者しか知らなかった内容が、今では高校の「生物」の教科書に普通に書いてあります。         

◆◆◆

 隣の座席で末岡先生は、ある科学者の話をしてくれた。

 かつて、コロラド大学が生物学で業績を上げている女性研究者を招聘する際に、その研究者側からの条件として、彼女の夫を同時に大学の講師にする条件が提示された。大学は、その条件をすんなりのみ、夫には大学生の生物学の講義を担当することとなった。(つまり、初歩の講義)

 アメリカの大学は、在職6年間の間に業績を残さないと退職しなければならない。(・・・このとき、この制度も末岡先生から始めて知った)
 なので、みんな必死になって、立派な業績を作り上げる。最高峰は、やはりノーベル賞

 1978年に採用された有能な「妻」は研究を主な仕事とし、ついでに採用された「旦那」は学生の講義と空いた時間で小さく研究を続けた。
 そしてついに、地道に研究していた夫トーマス・チェック(Thomas Robert Cech、1947-)は、「RNAが触媒的機能を持ち、細胞内での反応に関与している(「リポザイム」と命名)」ことを発見し、1989年ノーベル化学賞を受賞している。2023年現在も、コロラド大学ボルダー校で教壇に立っている。

トーマス・チェック教授

 この大学、なにげにすごくて、ノーベル賞受賞者が現在3人も教壇に立っている。(かつては5名!)そして、受賞者も卒業生から3名くらい輩出している。
 大学の構内には、彼の名前をとった「道」まであるそうだ。

リポザイム 商店街の地図ではない

 と、この話を末岡先生は、普通に話してくれた。
同じ領域の年下の研究者がノーベル賞に到達したので、悔しいとか、嫉妬心とかないのだろうかとその時思った。
 どうも、既にアメリカ国籍を取得して、長くアメリカで暮らしている博士にとっては、心の中もアメリカンになっているみたいだった。そうした物の捉え方もこのとき学んだ。

 さらに、アメリカがどうして大量にノーベル賞を排出するかの秘密も教えてくれた。
 とにかく、人口が多いので、同じ研究を全米で、とんでもない数の研究者が同時に研究するらしい。そのローラー作戦の結果、幸運な研究者がゴールにたどり着ける。他の研究者も、だいたいゴールにたどり着く時期は同じ。で、ほんの少しの時間差でたどり着く研究者や、別な道からたどり着くもの、少し進んだゴールにたどり着くものなどが続出する。そこで、ノーベル賞は、最近、複数の研究者を賞を与えることになる。

◆◆◆

 末岡先生と乗り合わせた飛行機は大西洋を越えシャルル・ド・ゴール空港に到着した。入国審査も一緒に受け、市内まで一緒に電車で移動した。
 僕はその夜の寝台列車でイタリアに向かう予定だったので、駅に荷物を預け、先生はというと、流暢なフランス語でホテルを探し、そのホテルに一緒にむかった。町を歩きながら、いろいろなことを僕に教えてくれた。

 「フランスの街角のケーキを食べてはいけない

 考えれば、機内でいろいろなことを教わった。おもに、身のこなしに関することが多かった。自分では、他の人よりそうしたことを身につけている方だと思っていたのに、先生からすればまだまだ教えることが多いみたいだ。 
 機内食の付け合わせのスパゲッティが本当に熱くて、思わずすすり上げてしまった時、僕はそれがいけないマナーだということは当然知っているし、普段から蕎麦だってすすらないで食べているのだけど・・・
 「大抵のマナーは許されるけど、麺をすするのだけは良くないよ
分かっていることだけど、逆らうことなく受け入れた。博士は、どれも、やんわりと伝えてくれた。

 先生は疲れたので少し寝るといっていたので、その間、一人でパリの町を歩いた。でも、行ったのは、コンコルド広場ポンピドーセンター(地下にIRCAMがある)くらいで、有名な美術館とかは行かなかった。
 夕方になったので、約束通り、先生のホテルに迎えにいって、どこかの店で一緒にご飯を食べて別れた。

◆◆◆

 帰国後、ネットのない時代だから、生物学関連の書籍で調べるしかない。すると、末岡先生はとんでもない人だということがわかった。  
 たとえば、現在でもネットでNoboru Sueokaと検索すると、分子生物学の歴史のようなページが開かれる。その歴史の中に日本人が一人だけ登場する。それも、何度となく。
 ほかにも、そうした関連の論文の中に先生の名前を発見する。つまり、どれほど引用がされているかと言うことが分かる。ただ、残念なことに、その意味と重要性が自分の儚い知識では読み取れない。ものすごく悲しい。

 そして、日本に帰ってから数ヶ月後、自宅に1本の電話がかかってきた。
なんと、末岡先生からだった。日本に学会のため来日していて、今は、東京にいるので、食事をしないかということ。
 先生がどれほどの人であるかを知ってしまった僕は、もう恐れ多くて、残念ながらお断りするしかなかった。しかも、出身校の京都大学の博士とご一緒だという。
(確か、数日後にもう一度かかってきたように記憶している。)

 偶然飛行機で隣り合わせた青年と、それも専門とは何の関係もなく、貴重な日本での滞在時間をその青年のためにさくなど、どういうことか。強いプッシュの向こうにはどのような意図があるか全くわからなかった。
 同じくらいの年頃の青年であれば、大学で数多く接しているはずだし・・・。

◆◆◆

 それからかなりの時が過ぎて、時々、夜の深い時間、思い出しては末岡先生のことをネットで検索していた。
 相変わらず、日本には情報が少なく、逆に英語ではあふれるほどの情報があった。
 そんな時、1冊の本に突き当たった。
(「波涛を越えて」末岡多美子著) もしかして・・・。

 早速取り寄せてみて、中を確認した。まさしく、末岡先生の奥様の著書だった。副題が「米国女性科学者の偏見・差別・平等」。
その本には、知られざる、この世界的な生物科学者の私生活についても書かれていた。

 奥様は、京都大学を卒業して、先に留学をした末岡先生を追って、大学院1年の時に、単身、アメリカに船で旅立った。
 もう、そこだけで物語は十分に成立している。しかし、文面以上に多くの苦難を過ごされてきたと思う。

 この本を通じて知ったもうひとつの末岡博士の私生活は、末岡先生ご夫妻にお子さんがいらっしゃるけど、その方はハワイで養子契約した娘さんであることも知った。
 女性研究者が、妊娠・出産という長いブランクを作ることは、研究や研究に必要な出世に対して大きな傷となる。そこで、お二人は「養子」をもらうという事を考えられた。
 この書籍をそこまで読んで、末岡先生が「あの時間」に何を感じていたのかがわかった。
 先生の心の奥底の気持ちは、父のいない僕が先生に父親像を見ることとまったく同じ公式を逆変換したものであったはず。もしかしたら、深読みし過ぎかも知れないけど、隣の席の若者にその先の思いをダブらせたのかも知れない。

◆◆◆

 それから数年後。大学院を卒業し、音大の講師となった時、先輩教員に強引に勧誘された作曲団体で、フルートオーケストラのための曲を発表することとなった。

 作曲でいつも悩むのはタイトル
人によっては、「頭の中にですね、海から雄大に浮かび上がる太陽を見て、そこから『曙』というタイトルにしました」などと、言ってのける作曲家もいる。良くもそれだけ稚拙に発想ができるし、そこに偽善すら感じられる。

 その曲を書き始めた時からずーっとタイトルに悩んでいた。
タイトルの言葉を探すため大型の書店をうろついていたとき、タイトルがパットひらめいた。そして、該当する書籍のあるコーナーに行って、ページをめくってみた。BINGO!ありました。

 で、タイトルは『INTRON』。
 塩基配列のひとつで、転写後に消去される。その後に残る部分がエクソン(exon)。
 フルートは遺伝子のように棒状の形状なので、まさにうってつけのタイトル。

INTRONの楽譜。今となれば珍しい手書き

 当然、末岡博士に献呈なのだけれど、未だに実現していない。
そして、いつかはコロラドに「楽譜」と「録音」を持って行こうと思っていたけど、それは永遠に訪れない。あの日から相当な時間が経っているので、そのXdayは現実にいつかは訪れることはわかっていたのだけれど・・・。そして、2021年、末岡先生は永眠された。

 なぜ、楽譜を郵送でもいいので届けなかったのだろうか?
なぜ、あの時、相当強くプッシュされていた食事を断ってしまったのだろうか?
 楽譜を届けるなんて些細なことが、それが永遠にかなわない願いが重しとなって僕の心の中に大きくのしかかる。

 会って何するわけでもない。「思い出話」と言っても10時間もない。
でも、再開すれば、多分、あの時と同じように、ずーっと以前から知り合いだったように、優しく迎入れてくれて、また何かを伝えてくれたかも知れない。

◆◆◆

 パリに向けてシカゴから離陸。機内食後のくつろいだ時間、末岡先生は窓側の僕に近寄り
  「あれがモントリオールだよ」と教えてくれた。

その時はもっと小さな光の塊に見えた

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