大学合格おめでとう!未来ある少年へ
こんばんは。
今日はnote書くべきだと思ったので書きます。
最近更新をしておらず面目ない。毎日毎日考えていることはあるんだけど。
私の素晴らしい生徒
私は現在オンラインで塾講師をしていて、中学生や高校生を全部で十数人受け持っている。
秋頃から受験生の男子を1人担当することになった。受け答えもハキハキしている、好青年だ。
どうやら、彼の通う高校も親御さんも、彼に自分の人生を任せているようだった。彼もそれを受け入れ、積極的に勉強し興味の幅を広げていた。これは自称進学校出身の私にとって、何とも羨ましいと感じることだ。
学生時代の私は、自分の人生におけるオーナーシップが極度に低い状態だった。頼れる大人達に興味をそれとなく伝えて、後の詳しいことは丸投げ。
結果、私の人生はとてもうまくいっているように見える。完璧主義の自分でさえ、結構うまくいっていると思うほどだ。だがそれはやりたいことをいくつか達成したという意味であり、やけに(自分にしては/世間的には)光り輝いた肩書きを指しているのではない。
その生徒は18歳にして、自分の人生を生きている。私もイギリスではそうだった自覚があるが、帰国してから他人の人生で軸がフラフラしてばかりだ。好きでもない、刺さらないが不快で強烈な価値観をSNSで見かけては、価値観酔いをしている。なんやかんや世間の声を知りたい欲はあるんだと思う。SNSの投稿などは世間の声のサンプル1でしかないので気にするのも変なのだが、調子が悪いと軽率に酔う。
18歳を尊敬する24歳。生徒を尊敬する教師。
年下だから、立場が下だから、世代が違うからなどと言って学びの機会をシャットアウトしてしまうのは、非常に勿体無い行為だ。学べるチャンス、自分を律し磨き上げるチャンスというのは、意外と溢れているものだ。無意識下の、または感じてはいるが言語化できない固定観念から脱却するという行為は必要となるかもしれない。それができないのでは、そのチャンスは流れてしまう可能性が高い。
おめでとう!楽しい大学生活になるはず
彼への最終授業。共通テストのリサーチの結果が、非常によかったと教えてくれた。
大学に受からなくても働けばいいし、と語っていた彼も、共通テスト前は非常に緊張していた。緊張しながらも、「勉強の習慣がつきました、本当にありがとうございました」と言ってくれたことを思い出す。
共テ後の授業、こちらの方が様子を伺うのに緊張してしまったほどだが、英語で過去最高得点出せました!と報告してくれた。
未来ある大学生を生み出すことに貢献できた。彼はきっと私よりも心の健康をもって大学生活を送ることができる。健康に真っ直ぐに、人を思いやる心を持って。
余談だが、彼にも留学の話をよくしていた。「親にめちゃめちゃ止められているんですけど、」と切り出され、(よし、私は否定しないぞ)と構えた。次の言葉は「紛争地域に行きたい」。一瞬固まってしまったが、周辺国のトルコをおすすめした…
優しいといえば…
一コマ分の限られた時間しか彼についての情報を得る手段はない。だから彼を知った気になど到底なれないが、私からみるに彼は共感能力の優れた人間だ。某テ◯ラの創業者の話を出した時に唸り声をあげて「あーめっちゃ嫌です」と言っていた彼を非常に好ましく思った。(笑)
彼は「自分勝手」という言葉でその人物を批判していたが、なるほど私はその語彙は思い浮かばなかった。
自分勝手…すごくマイナスな響きだ。私であれば「無神経」「無頓着」など、単に共感能力を司る感覚器官の欠如だという風にしかに表現できない。
というのも、その創業者のことを彼ほど嫌いになれないのだ。私も自分勝手側の人間だから。むしろ、あそこまで自分勝手に振る舞っていても全米を沸かすことができるなんて、羨ましく思う。
共感能力の欠如は、私が少年期から指摘されてきた欠点でもある。私以上にその欠点が強烈な人も何人か見てきた。が、それを多めに見てやってもいいと思わせるほどの能力や魅力がある人のことは、妬ましく思っている。妬ましい。ズルい。こちらは頑張って直そうとしてきているのに。自分勝手さを開き直るという選択肢がなかったことも悔しい。
だが、少しだけ共感能力を得ていてよかったな、その価値があったなと思う出来事は最近多く、その生徒もその一例だ。
私は優しくないからと流すように言ったところを「いやーそんなことない!」と語気を強めて言ってくれた。本当にそう思ってくれているような口調だった。
別記事に書いた、常に他人のために動くインフルエンサーの友人にも、私のだいぶ変化球な「優しさ」に感謝してくれる。(下記事参照)
共感能力の高い、優しい人を支援している時が一番幸せと言えるかもしれない。私のこの持て余した思考力や理屈っぽさを使い、本当に素敵な人々を精神的に支えることができるなんて。私の能力はこう使われてほしい。
やっぱり人の優しさは見逃したくない
どんな人でも優しい一面はあるものだが、私が重宝する優しい人の定義がある。自分の意志をもって他人を優先し、その選択に納得するような人だ。そのような人達に、私のどこかしらの能力が使われればいい。
私は自己愛が強く自己肯定感が低い困り者だ。そんな人間は、資本主義が掲げる数字や成果に飛びつく。数字に私の幸せはないと90%は分かっているのに、10%の余地がなかなか私を諦めさせてはくれない。
数字が出せない自分に価値を見出すことは難しい。いつも何もしていない自分を認めるのに苦労している。
私の記事に出てくる彼氏を本記事でも再度話題に出そう。彼とはもうお別れして友達になっているのだが、彼は意志をもって然るべき他人を優先するという、私が定義する優しさの極地にいる人だった。
彼との日々を思い出して、後悔がないわけではない。私が担当する生徒のように熱くアドバイスすることも出来た。が、あまりに熱が入り過ぎてモラハラをしてしまうことを恐れ、そういった形でサポートを出来なかった。私の能力は正に彼のような人のためにあるというのに、本領を発揮出来たとは言えないのが悔やまれる。彼がそんなアドバイスを求めてなければそれまでだが。
素敵な友人達、先生達、生徒達、お世話になった方々へ
自分勝手な私なのに、気に入ってくれてありがとう。自分勝手な私に、優しさを与えるチャンスをくれてありがとう。貴方は大丈夫だと背中を押してくれてありがとう。自分と好きなこと、分かりやすい結果にしか興味を持てなかった私が、人を好きになれたのは貴方達のお陰だ。
人生を終わらせようと思ったことはないが、いつのまにか終わっていればいいと思ったことは何度もある(その時は全人類と一緒がいい)。きっと今後もそう思う。でも、ここまでは生きてきてよかった。もうちょっと生きていてもいいかもと思えるくらいには、幸せを感じていることが多い。
ただ合格報告をしてくれた生徒の話を書こうとしただけなのに、いつも通りここまで派生してしまった。
おめでとう、未来ある少年。貴方の人生の助けになれたことを、誇らしく思う。これからも楽しんで生きてほしい。私は帰国してからは、どうやら毎秒楽しいというわけにはいかないようだ。だから、せめて私が助けたいと思う人の心の支えになるような、かっこいい大人になろう。