比較の呪縛 自分に嘆くのに疲れた、精神の自傷行為はもうやめる
こんばんは。
ずっとこのテーマの記事を書こうと思ってたんです。
人と比べて、自分を責めて、自分を律して、成長する。成長が結果だから、これはどこまでやっても褒められるもんだと思っていました。
いつの間にか、どこまでいっても自分を責め続けていることに気付きました。
これは、「比較の呪縛」からもう逃れたい、私の超個人的なエッセイです。
褒められた向上心 止まらない精神の自傷行為
比較の呪縛1:英語至上主義
私は、気をつけないとどの分野でも人と比べて劣っているところを嘆いてしまうのだが、中でも特に強く比べてしまう分野は1.英語力 2.容姿だ。
英語力については、私の別記事で多く書いたとおり、私は英語を軸として人生を構成してきた。英語の世界が私の人生をなんとかしてくれると思っていたし、実際ユニークな人生にしてくれた。英語を失うと私の人生の価値半分以上損なうと本気で信じている。
ただ、いくら勉強しても学び足りることはないし、いくら勉強しても上には上がいる。これを嘆くのは完璧主義というが、完璧主義と英語学習の相性は最悪だ(別記事参照)。
自分を責めているとき、あなたは英語について何をしている?学びを止め、英語が嫌いになる努力をしているに過ぎない。悔しさをバネになんて考え、よっぽど体力があるかマゾヒストでない限り、毎回やってたらたまったもんじゃない。
私はそれを毎回やっていたが、残念なことに上記2つの特徴に当てはまらなかった。苦しかったし、何よりそれが学習の邪魔になった。
比較の呪縛2:外見至上主義
外見。容姿を比べて落ち込むなんて、特に日本女子の慢性的な疾患となりつつある。容姿なんて英語力より特に基準が曖昧であったはずなのに、日本社会は、特に女性向けの雑誌が流行った平成辺りから、美しい容姿、特に顔面の基準が可視化、数値化され、現代は美の基準最盛期だ。個人の好みに依らず、どこからか新しく生み出されたもっともらしい基準で、簡単に顔の優劣を判断できるようになってしまった。
私の場合、容姿はまあ褒められるし、化粧も好きだ。ありがたい。が、勿論例外なく優れた他人と比べる。世間のそういう美の基準を一応心得ているので、自分よりも綺麗な画面の向こうの人と比較し落ち込むことが出来てしまう。出来てしまうから、やってしまうのだ。
一個人が芸能界などにいる美しさで金をもらっている美人と比べて、ああ自分は劣っている、なんて不条理なんだと嘆くなんて、よく考えるととんでもない。
努力で何とかなる部分はあるにしろ、なぜ遺伝子が現代の美の基準にピッタリ沿って生まれてきて、且つ黙ってても周りが金をかけて磨き上げるような人と自分を比べるのか。
確かに見た目が重要というのは、この世の全てではないにしろ、この世の真理だ。あまり言いたくないが、誰が生理的に受け付けない見た目のモノや人、動物を喜んで受け入れるのか。見た目を磨くことは間違っていない。高みを目指した結果追いつかず、嘆いて自分を責める。責める部分が間違っている。
まあ私はこの間違った行動が染み付いていたので、少なくとも10年強はこれをやってきた。
「英語が出来て多少賢くて見た目も褒められるのが私なのに、これより上を見たら私の存在意義が消えてしまう!」
これを本気で思っていた。そんな奴この世に五万といる。腐るほどいる。出会うたびに「ああ、どうせ実家が太いんだろう」「あんま思考が及ばないんだろう」「肩書き強い周りの人に助けてもらってるんだろう」等、ルサンチマンを存分に発動させて自分を守る。
そして行き着く先は「私は全然だめ。最悪だ。もっと必死にならなきゃ」と、精神的リストカットをしている。この一連で、私のことを否定している人は誰もいないことには気づかない。
比較の呪縛はモラハラな恋人
比較の呪縛から、私は色んなスキルや視座を得た。「どんな酷い経験も無駄にはならない」の一例だ。だからこの呪縛を完全に否定できない。
成長=存在意義の私は、なかなかこれを手放すことは出来ない。まるでモラハラ、ひいてはDV恋人だ。あの人は酷いこと言うけど/手を出すけど、本当は優しいしあの人のお陰で成長できたのよねって。冗談じゃない。
何が言いたいって、このスタンスは健全じゃない。私は比較の呪縛から逃れたいと思うのは、それが健全じゃないからって言いたいところだが、理由はもっとシンプル。もう疲れたから。もうつらいから。
もう精神的な自傷行為をやめたいから。自分はダメだということを認識している自分を肯定することで、まだ自分は救えるという偽りの安心を得たくないから。そんな形で自分を認めたくないから。
比べることをやめようするに至った大きな出来事は、それぞれ一つずつ。私が英語で自信をなくしているとき、彼氏が私の英語学習における始点と軌跡を私に一生懸命説明してくれたこと。
私がどんな背景を持っていて、ここまで来るにはどれほどもがいたか、彼の方が分かっているようだった。私という人間は、自分が過去にもがいたことなんてさっさと忘れて、至らぬところを見つければまた新たにもがいてしまうような人だ。私の努力や結果を褒めてくれる人はありがたいことに沢山いたが、こんなにしっくりくる形で私の努力を評価して、気づかせてくれたのは、彼が初めてだった。
見た目に関しては、綾瀬ちいさんのYouTubeチャンネルが本当に役に立っている。彼女は綺麗事をそのまま言うのではなく、ロジカルでコミカルにルッキズム(=外見至上主義)への対処方法を説明してくれる。
齋藤飛鳥の顔が17cmだというニュースを見て、彼女は自分の顔を測るもう少しのところで正気に戻りメジャーをかなぐり捨てたらしい。
理由は「自分の方が彼女より顔が大きいことを既に知っているから」。これはいい考え方だ。もう分かっていることを確かめて何となる。元々気になってなかったところを気にし始めて自傷の材料にするなんて、少なくとも、自分の人生においてそれをやる意味はない、得がない。
有害な比較習慣は、周りの人、特に親しい人を傷つける
比較の呪縛で私が最も罪深いと思うのが、周囲の人間に比較呪縛ウイルスを撒き散らすことだ。
自分の親、自分の恋人、自分の友達…。「でもあの人は出来ている」を他人に対してやるようになる。自分が勝手に自分と他人を比べて落ち込み努力するのは勝手だが、そのせいで周りにいる人に感謝出来なくなり、周りに自分の基準を押し付けて責め、最悪相手を自己嫌悪に貶めることになる。
私は自戒を込めているからこんな厳しい口調になるのだが、比較して苦しんで努力し、それを正当化するような人というのは、他人も必死に生きているというのをまるっきり忘れがちだ。
字面では分かっていても、それが自分の身の回りの人になった瞬間、
「…え、なんでもっと頑張らないの?もっと必死にやれば?自分の位置認識している?ほらもっと上いるんだよ?時間は有限だよ。落ち込まないで体/頭動かそ?」
という具合だ。終わり方こそどこかポジティブに聞こえるが、立派なモラルハラスメントだ。
これを言わなかったら立派なのではなく、こういった根本的な考え方を持つのは罪だとさえ思える。
比較の呪縛を抱えて努力する人は、どんな文脈であれ社会的成功者になりやすいのは否定できない。実際彼らのうちの一部は自分の地位•名声と共に無作為に多くの人を助けている。そういう社会貢献の仕方も大いにありだ。私たちは彼らから間接的に恩恵を受けている。
比較の呪縛から逃れず、自分の足りなさを呪うやり方で何かを成し遂げるのが自分の捨てられない道だと思うのなら、それを追求するのもよい。
ただ、これは上に示した通り、比較とうまく折り合いをつけている周りの人に再び比較の呪縛に引きずりこみ、自らの「足りなさ」を呪う思考を押し付け、自己嫌悪に陥らせるという副作用が付き纒う。
この思想を本当に自分だけに閉じ込めておけないし、もう自分もうんざりしている。それならば人と比べて自分に嘆くのはもうやめよう。人と人を比べるのも、自分と人を比べるのも。比較比較の世の中になってしまったが、社会的に成功したいとしてもこの考え方抜きで成功できるし(実際劣等感など持たず特別天才でなくても社会的に成功を収めている人はいる)、自分の人生の軸で、自分が幸せを感じたいんだ!と思うならばまず逃れるべきもの、それが「比較の呪縛」だ。
終わりなき比較の呪縛から抜け出す
あなたが任意の基準で自分と他人を比べる癖があるとして、結果他人より劣っていました。それが何なのか。では世界で一番優れているのは誰なのか。どこまでいったらあなたは自分に満足するのか。一生満足出来ない。あなたが世間から恵まれていると評価されていてこの思考なら、特に一生満足できない。もう満足出来るのに、生涯満足しないことを自ら選んでいるからだ。
もっと自分が自分であることを誇ったらダメなのか。自分が幸せでいなければ、誰が自分の周りの人を幸せにするのか。自分の周りの人は、あなたが勝手に比較により自分を呪い、苦しみ、努力し、うまくいった途端、頼んでもいないのに「お前もそんくらいやれよ」という態度をとってくるのを、喜んで受け入れるのか。
こんなに偉そうに言ったのに、私はまだ人と比べて落ち込むことを反射的にやってしまう。習慣は抜けるものではない。でも、もう疲れたから、自分のためにストップする。自分と、もう私を認めてくれている私の周りの人のためだ。
顔も名前も知らない、世界に存在する多数の人のために、どこかの誰かが作った社会のあらゆる基準を用いて、私は生きない。
自分が作り出した、私と私の大切な人達が住む世界が幸せであり続けるために、私は比較の呪縛を断ち切って、もう機能させなくしてやる。冗談ではなく、人生での長期的な闘いになる。