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東北の伝説、地名、謎の博物学者
古代の「関東から東北にかけて日高見国という別の国があったのです。そしてそれは、高天原(たかまがはら)のことではないでしょうか。」という話を書いたことがありました👇
随分と月日が経ってしまいましたが、東北について、とてもためになる、興味深い話を書いてみようと思います。
古代の蝦夷について
いったい蝦夷とは何者で、かれらを制圧した坂上田村麻目とは何者だったのか。(中略)
中世の蝦夷史料として有名なのは『諏訪大明神画調(すわだいみょうじんえことば』と呼ばれる絵巻十二巻である。
この絵巻は、奥州の蝦夷が蜂起していた時代に、諏訪大社が神威を発揮して騒乱を鎮(しず)めた事蹟の再現を祈念するためにつくられたという。延文(えんぶん)元年というから、一三五六年にあたる。諏訪円忠(えんちゅう)の手で完成された。
このうち「縁起部」と題された巻に、有名な由来書があり、蝦夷居住地の実情を伝えている。
<中略>
簡単に説明すると、次のようになる。
蝦夷の千嶋(ちしま)というとろは、日本の東北にあたり、海のただ中にある。
日の本(ひのもと)、唐子(からこ)、渡党(わたりとう)三グループがあり、それぞれ三百三十三島ずつに群居している。また一つの島は渡党に属している。その一島のうちに、ウソリケシ(金田一京介の読みによる)やマトウマイ(同)などという小島も含まれている。
この渡党は多く奥州津軽の外浜に来て交易をおこなう。蝦夷の一肥は六千人のことで、これが集まって千把以上にもなることがある。日の本、唐子の二種はその本拠が外国につづいており、姿かたちも夜叉(やしゃ)のようでおそろしい。
蝦夷、というとやはり怖くて、おそろしいイメージの描写が定番のようですが、話をしようとしても言葉が通じなくて苦労した、という経験などもあって、相手の様子を誇張しているような気もします。
興味深いのは、やはり「日の本」と名付けられた国があったことです。
その性格だが、けものや魚の肉を食べ、五穀の農耕を知らない。たくさんの通訳を使っても、ことばはほとんど通じない。一方、渡党のほうは日本人とよく似た姿をしている。ただ、ひげが多くて、全身毛深い。ことばはかなり訛(なまり)があるがだいたい通じる。渡党の中には、中国の将公超(こうちょう)のごとく、ふしぎな霧をなして人をまどわす術を伝え、同じく
中国の将公遠(こうえん)のように身を隠す術を心得ている者もいる。
日の本といういい方は、坂上田村麻呂が奥州の地に建てたという壺の碑の石刻文を連想させる。あの伝説的な碑に、田村麻呂は「日本中央」と彫りつけた。その意味はもうあきらかだろう。それは日本の中央ではなく、あきらかに「蝦夷の国の中央」を意味していたのだ。
荒俣宏は、日本の中央ではなく、「蝦夷の国の中央」を意味していた、としていますが、どうでしょうか。
東北を旅した不思議な博物学者、菅江真澄(すがえますみ)
菅江真澄(すがえますみ)をご存知でしょうか。
菅江真澄は江戸時代後期、三河(現在の愛知県豊橋市付近)に生まれた旅行家、博物学者である。三十歳の頃に「各地の古い神社を参拝したい」と三河を出奔(しゅっぽん)、信州を経由し、東北、蝦夷地まで足を延ばした。
草本学(そうほんがく)に詳しく、草本から薬を作り、苦しんでいる者を助ける医者のようなこともしたようだ。
その一方で旅をしながら『菅江真澄遊覧記』と称される旅日記を、得意だった細密画と共に残したほか、随筆なども書いている。
その数二百冊以上もあり、このうち七十七冊十二帖が国の重要文化財に指定されている。七十七歳で秋田の角館(かくのだて)で亡くなるまで一度も故郷、三河に帰らなかった。実に五十年近くも主に東北を旅していた人である。
後年の民俗学者、柳田國男はそんな菅江真澄を「日本民俗学の開祖」と讃えた。
いろいろなところを経巡り、各地で奇跡をなして病人を癒した人、といえばイエスキリストが有名ですが、錬金術師パラケルススも医師として活躍していて、聖人は病を治す、というイメージは世界共通なのかもしれません。
これは余談ですが、菅江真澄が訪れた地には世界遺産になっている白神山地に、暗門の滝と呼ばれる滝があります。岩木川の支流、暗門川に懸かる滝で、下から第一の滝、第二の滝、そして第三の滝、というように三つの滝からなり、その総称です。
そしてその近くには秘密があったのではないか、と言われています。その秘密は、弘前藩がそれより百年ほど前から家伝秘薬「一粒金丹」という鎮痛、強壮に効く薬を販売していたことに関係しているという噂で、薬とはもしかしたら。。。
東北に残された地名の謎
実は東北に残されている地名には、私たちが知らない秘密があります。
それはどのようなものでしょうか。
菅江真澄(すがえますみ)の『真澄遊覧記』を読むと、江戸中期の下北半島にはまだ多くの蝦夷集落が残っていたことがわかる。当時はすでに蝦夷をアイヌと同一視していたらしく、かれらが祀(まつ)った弓や矢やイナウ「帛(はく)」が神前に見られたことを誌(しる)している。また、下北半島が古くは「字曾利」(うそり)と呼ばれ、恐山の「オソレ」もこのウソリが訛ったものであった。
下北田名部周辺の地名には、〇〇部と付くものや〇〇戸と付くものが多い。田名部、木野部、そして一戸、二戸・・・・奥戸などである。部は北海道でいう別(べつ)をあらわし、内(ない)とともにアイヌ語で川を意味する。また一戸はプまたはぺで、野原(ときとして別の転でもある可能性はあるが)のこととする。また戸(と)と読む場合には「沼」の意味であったようだ。
このように、現在の漢字の用法とはかけ離れた元の言葉の意味は、驚きと不思議な印象を抱かせますが、あらためて地図をひろげて、地名を確かめてみたくなります。
さらに重要なのは、<略>イシブミの「石」も、地名によくでてくる。じつは、アイヌ語にウシということばがあるのだ。
このウシが後世、牛の字に充(あ)てられ、さらに訛って石(いし)に充てられたと考えられ、割石、釜石、雫石などの石はその事例とされている。
ならば、ウシとは何か。入江あるいは湊(みなと)のことである。水と陸とが接するところで、豊漁が期待されるから、楽土あるいは整地の意味をも担ったであろう。
ウソリという地名自体、ウショロの転とされ、大きく入り組んだ湊の地をあらわしていたと考えられる。
ついでに書けば、蝦夷のことばで岩屋というのは、祭場のある山を指す。イワキ、イワテといった霊山が東北に存在するのも、おそらくは蝦夷の古いことばにかかわっていたはずである。
このように、東北では、イシやイワという語には、聖なる岩石という日本語的な意味合いばかりでなく、古代の蝦夷語ウシやイワヤともリンクしたさらに奥深い意味が存在していたにちがいない。
ウシが牛にあてられて、さらにイシになって、地名に残されている。そして元をたどれば、ウシは入江あるいは湊(みなと)を指す言葉だった。
それは水と陸とが接するところで、豊漁が期待されるから、楽土、すなわち楽園を意味していた。
東北は、豊かな地であり、楽園だったのです。