扉が少し開いたはなし
文章に触れたい一心で、でも本当に文章にふれたときに何も生むことができないと気づかされることが怖くて、とりあえず気軽に、そして日常生活のタスクをこなしながらでもその片鱗を味わえるオーディオブックという形でひさしぶりに文学に触れた。
たまにビジネス書や、論文やらに興味を示して読んだりすることはあったけれど、創作物に触れるのはかなりひさしぶりなことだった。
今なら3ヶ月無料で利用できるアマゾンAudibleで、人気の小説としてアプリのホームで流れてきた「流浪の月」という作品を、なんとなくその美しげなタイトルに惹かれて、前情報無しで聞いた。
作品そのものの感想は今私がここに書き記したいこととは違うので省く。
少年少女のもどかしい思いがたくさん詰まったお話だったのだけれど、わたしは物語の場面になぞらえて自分自身の経験してきた事柄の中から、その場面ごとで共感できる気持ちを押し入れにしまい込んだタンスの中の小箱をあけるようにひとつづつ引き出して、共感することそのものを噛みしめていた。
そうすることでわたしの心は現実からは遠く離れたところへ切り離されて、ただ小説を聞き流しながら近所のスーパーへ足を運んでいるだけなのに、道端に咲いている名前のわからないへんてこなフォルムの花や、草の生い茂った田舎の暗い川に反射する細やか光や、非現実的なくらい赤々と燃える夕焼けに気づく。
創作活動はわたしを、この美しい世界の中に存在していて良いと肯定してくれるから好きなのだと綴った瑞々しい高校生の頃の文集のことを思い出した。
まだまだ私の中の感性は濁っている感覚があって、あの頃と全く同じ景色は見えてはいないのだけれど、埃っぽくて重たい、古めかしい扉のほんの少しの隙間から向こう側の光がかすかに漏れ出ているような、そんな感覚を覚えた。
義母からの電話にすぐに買い物をしているスーパーへわたしの意識が引き戻される。やはり私は輝かしい世界の繊細で清らかな登場人物ではなくてがっかりする。
でもそんな日常を選択したのはわたし自身だ。それ自体に全く後悔はなくて、なんなら愛する夫と可愛い息子とやりがいのある仕事で本当にやりたいように、自分で自分の道を決めてきた結果が今だ。
流浪の月の登場人物とは違う部分はそこにあって、彼らは抑圧され、大きな波に逆らえずに流されて、キラキラした宝石のような日々を取りこぼして、また波に流されて、物語らしく最後にはなんだかんだ美しい日々を取り戻すのだけれど、そんな彼らよりもわたしは頭がいいので、ちゃんと賢い判断をして今ここにいる。
だから瑞々しい感性は失われたわけではなくて、わたしが選んできた結果、失われつつあるというだけだ。
つまり何がいいたいかというと、自分でコントロールできるような気がしている。
あの、美しい世界に浸りたい時に入っていき、現実に戻るべき時に戻る。
そんなふうに自分の意思で世界へ出入りができる気がするのだ。
こうやって今つらつらと頭の中の言葉たちを書き連ねているのもきっとこれから自分の意識を操作するための練習になっているのではないかと、そんなふうに信じたい、信じられるような気がする。