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うちの蔵がある亀崎という街はかつてはとても栄えた町でした。

半島唯一の百貨店があったり

丸音デパート

銀行があったり

衣浦貯蓄銀行(うちの祖先が立てた銀行)

劇場が2つあったり

相生座

芸者さんもいて、他地域から遊びにくるような場所だったそうです。

そもそもなぜ知多半島で醸造業が盛んになったのか。
それは海運業があったから。
最初は知多半島の醸造業は「日本最古の海水浴場」がある大野地域から始まりました。ただ、冬に西風の影響を受けて江戸へ荷物を運ぶには効率が悪いことから、徐々に酒造りの中心地は半島の東側へ移ります。
こうして、江戸中期から、亀崎・半田が醸造業の中心地になったのです。

この地域の海運業は「尾州廻船」と呼ばれる廻船でした。上方から江戸へ酒を運んだ「樽廻船」は運賃で生計を立てていた一方、「尾州廻船」は知多の問屋が自ら売買を行う商社のようなビジネスモデルで大きな利益を稼いだと言われます。
うちの本家であった伊東七郎衛は「穏乗丸」という船で莫大な富を築いたと聞いています。
ちなみに、うちの蔵も「栄昌丸」「清航丸」と言った船を持っていました。
※日本福祉大学 曲田先生による亀崎の尾州廻船についての論文はこちら

こうして、人の往来も盛んだった亀崎は一大歓楽街になったと聞いており、冒頭のような沢山の施設があった町に成長したのです。

さて、莫大な富を築いた伊東家は地域貢献を積極的に行います。
亀崎幼稚園の設立への援助

多くのお寺への寄付(多分)

貯蓄銀行を設立したのも地域貢献の一環だったと思います。
※貯蓄銀行の説明はこちら


とりあえず自分の蔵・地域が一番説明しやすいので例として挙げましたが、
多くの酒蔵は地域貢献を行っていました。全国的に酒蔵は地主・名士が多く、恐らく仏教の教えもあり、徳を積むためにも多額の寄付などを行っていたのでしょう。
まさに酒蔵は地域の代表・象徴だったのだと思います。


現代になり、資本主義が定着し、酒蔵も一つの企業として見られるようになりました。
その結果、酒蔵は昔よりも「地域との距離」がある気がします。
もっというと酒蔵だけではなく、地域の特性を生かし、地域を形作ってきた地場産業と、地域との距離です。

勿論、世間の常識も変わっています。全てを「昔どおりにすべき」とは思いません。
ただ、今後少子高齢化が進んでいく日本にとって、敢えて地域に根付き、地域のために経済活動を行い、コミュニティとしても距離を近づけていくのもあっていい形なんじゃないかなと思っています。

なので今度マルシェやります(唐突な宣伝)

お酒がメインではなく、家族連れの方・子供たちでも安心してこれるようなイベントにする予定です。酒も売りますよ、ただ端っこの方でちんまり売る予定です。
プログラムもある程度できています。早く発表したいなーー!!なーーー!!
出店者さんは決まりました!こちらも追って発表します!

なお、おやこ食堂もそういった想いもあって、場所をお貸ししています。7月はイベントやるみたい。流しそうめんをやりますよー。蔵人さんも手伝うのでこれも楽しくやれそう。
おやこ食堂についてはこちらをご参照ください!

そして今後。
自分の活動軸もうまい酒を造るという軸と共に、地域の営みを創るという軸もつくっていきます。
この辺りはまた発表できるタイミングになればバンッ!と打ち出していきたいなと思っていますので何卒。


さて。結局取り留めがなくなってしまった。
地域の中に酒蔵がある。酒蔵が真ん中にいる街づくり。そういったことを今後ともやっていきますので何卒よろしくお願いします!

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