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スゲーッ爽やかな気分だぜ ✎1,511
スゲーッ爽やかな気分だぜ。
別に新しいパンツをはき始めたわけではないが。
新しいパンツをはき始めなくても、元旦の朝スゲーッ爽やかな気分になった。という話。
思えば、こんなにウキウキした年明けは2022年寅年の幕開け以来だ。
つまり今日は「前回の寅年以来のウキウキした巳年の初日」ということになる。寅なのか申なのか巳なのか分からない。私の頭の中にはそれら三匹を組み合わせたキメラが(上手く想像できないので結局寅の姿で)眠っている。……いや寝るな。加えて巳であれ。
ともかく、2025年1月1日をスゲーッ爽やかな気分で過ごしたという事実は素敵な思い出として丁寧にスクラップし、シール帳にでも貼り付けようと思う。スクラップ・アンド・ペタット。そうすれば友人と会ったときにキャッキャッしながら交換ができる筈だ。
なぜこんなに爽やかなのかは知らない。只なんとなく爽やかなのだ。ただぼんやりとした爽やかさ。というのもなんだから取り敢えず、母がLINEで送ってきた"ヘビーメタルヘビ"が可愛くて癒されたから、ということにしておく。
ちなみに去年の年明けもよく覚えている。なぜなら高熱で寝込んでいたから。
年末から発熱し、気が付いたら新年の朝だった。祝うどころではないのでひたすら寝ていた。たまに目を覚ましてはツイッターXを開き、ぼんやりとしてはまた眠る三が日。
可哀そうだと思う勿れ。私がこれを振り返ると、のんびりできて良い年明けだった、となる。
だが、睡眠と睡眠の間の曖昧模糊とした意識時間に地震が起こったり飛行機が燃えたりしたものだから、ひどく混乱した記憶はある。一体世界はどうなってしまったのかと浦島太郎っていたわけだ。たわけ。
埼玉も少し揺れた。その時、私にもっと近い場所で何かが起こってもどうにも助からないだろうと全てを諦念した。そこには「全てをありのまま受け入れるしかない」という悟りの爽やかさがあった。空気も澄んで、お日様も眩しく、オフトゥンも暖かかった。
これまで全く意識したことはないが、もしかすると私は元旦に爽やかな気分になるのかもしれない。
これを立証するには、元旦を沢山集める必要がある。要するに、いっぱい生きる必要がある。来年の自分の心理状態は、来年にならなければ集められない。
これ、立派な生きる目的にならないか?
私はよく隠れたくなる質の人間で、その度になぜ生きるのか考える。
これまでは(何が切っ掛けか忘れたが)ニーチェが言うところの「最大の喜び」を得る為としていた。どんなに辛いことがあっても、ある時「この瞬間に出会うため自分は生きてきたんだ」と思えれば私だって永劫回帰どんとこい人間になれると考えてきた。
それもメチャクチャ良かった。落ち込む度に「人生最大の喜びはどこだ!!!」と唱えることでそれなりにエンジンがかかったし、這いずり回るくらいの気力は得られた。自分にとっての喜びを探すことは、その幸福を探すことよりも具体的に想像しやすいのかもしれない。
だから今年はこの「喜びはどこだ法」に加え、「ジブンデータ収集」をしながら生きようという魂胆だ。今日から二刀流だぜひゃっほう。
そんな感じでウキウキした結果、陽光の下で読書し、お昼寝し、ストレッチと柔軟をし、筋トレをし、文章も書き出す愚を犯してしまった由である。更には苦手なくせに酒も1缶開けてしまった。缶は空けても空かない。完全な勇み足。何しとんねん。
元旦の爽やかさにキマっちまった。
だがまァ、悪くない年明けだ。
生きるとは、人生最大の喜びを探し続ける自身の目撃者となることである。
私はこんな私と、今年も宜しくやっていくつもりである。