所有と文章 ✎983
男性は所有そのものに価値を見出し、女性は所有によって発生する関係性に価値を見出すという。
グッズ収集を例に挙げるとこんな具合だそうだ。
男性:自分の手の届く範囲にグッズがあるという状
態そのものに価値を置く。
自分自身で楽しめる事に喜びを感じる。
女性:収集それ自体に価値を置く。
“所有状態”を他者に認識させる事に喜びを感じ
る。つまり「買う」という行為そのものや、
「私はこれを買った」と他人に話す事が喜び
につながる。
あくまでも、そうした傾向にある、という話。
私はモノにしろ知識にしろ、女性寄りの価値基準を持っていると思う。
引きが悪いクセにランダムグッズを買うし、何かを買う際は、購入後それをひけらかす自分の姿を想像してワクワクする。そういえば観劇も同じかもしれない。「観た」という報告をせんがために観に行く、なんてことは屡々ある。
では文章はどうか。
いいねを貰えると嬉しい。当然だ。だからまぁハッシュタグなんかを付けてみたりもする。
だがそれはそれとして、書いている時に得られる充足感や、文章が出来上がった時の達成感の方が勝っている気もするのだ。
故にか、自分で書いた文章は何度も読み返す。少しでも気になる部分があれば、1文字、1句読点、1記号単位で修正する。不思議なことに、その部分は読むたびに変化するから、何度も修正する。そうして出来上がった文章をまた読む、修正する、読む、その繰り返しだ。この作業は、例えるならば、商品を売り場へ綺麗に陳列するようなものである。少しでも傾いていたら直すし、埃を被っていればはたきをかける。
そうして私は私の文章を愛で、楽しむ。“自己”から生み出された文章に至っては、私は“所有そのもの”に満足できる。価値を見出だせる。
私の価値基準では「読んでもらうこと」の重要性が低いのだろう。要するに、読者を想定しない文章。言い換えれば自己満足だ。自己中心的、自分勝手、我利我利。読みたい人だけ読めばいい、私は独りで勝手に書くだけ、という姿勢。
ただ、私が発するこれらが、いつかのどこかの誰かの何かに少しでも影響したとすれば、それは泣きたいくらいの幸福であることにも違いない。
畢竟、おれはおれの書くものが結構好きなんだ。身勝手で頑固で反抗的な、正直者の書く文章が。
参考
斎藤環『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫)
こんにちは、及です。しき、と読みます。『思案のあとさき』始めます。
考えたことや思ったこと、感じたこと。主に思考整理の記録とします。
某電車にて
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