弔い上げ
日本が勇ましかった時代、人々は色々な形で心に深い傷を負って生きていた。向田邦子の『父の詫び状』を読むと私は感情を揺さぶられる。じぶんの父が浮かんでくるのだ。父は五十四才で死んだから、私とは二十三年のつきあいだった。
私は父のことが大嫌いだった。 母の兄嫁にあたる伯母は、父が「あんたを着物のふところに入れて抱いて帰っとったよ」という。そんな優しさ、私はまったく覚えてない。
今では犬や猫にだってダメだが、叩いてしつけるスパルタ教育が、1960年には行われていた。だから、食事中に醤油ビンを倒すとか、何かやらかしたなら、まだわかる。でも、うちの父は気分しだいで、怒鳴る、叩く、蹴る、物を投げる、押し入れに閉じ込める、夜ふけに外に放り出す。酒乱でも薬物中毒でもない。赤の他人には親切でにこにこしているのに。
きげんがいい時にも、ひどい目にあった。
私が小学四年生のある日、いつになく父が陽気に帰ってきた。「ワッショイ、ワッショイ」と肩を組んでくる。電気工事の仕事でかいた汗と屋根裏のホコリの匂い。逃げようとするが、父はムキになって腕をはずさない。「いいかげんにして!」とふりはらったその時、私は父もろともガラス戸に倒れこんだ。ガッシャーンとものすごい音がして、気がついたら、うす暗い座敷で仰向けになっていた。横を見ると、父は割れたガラスの上にてのひらをつき、手のひらが血まみれだ。私がとっさにタオルと救急箱をとってきて、あたふたしているところへ、母が内職部屋から飛び出てきて叫んだ。
「あんた、そのヒジ!」
「え?」
不思議なことに、私はまったく痛みを感じてなかった。見ると、右肘がぱっくり割れている。大さわぎになり、たまたま非番で家にいた隣家の伯父が車を運転して、私と父を繁華街にある整形外科に連れていった。
医師は苦虫をかみつぶしたような顔で私の右肘を五針ほど縫い、傷はふさがった。
「もうちょっと横やったら、大事な筋が切れとったで」
父の手に包帯を巻きながら、医師はドスの効いた声で言った。父の傷は縫うほどではなかった。手当てが終わり、病院の外に出たら、急に父は「何でも欲しいもん、買うてやる」と言い出した。私は商店街のレコード屋でポータブル・レコードプレーヤーを買わせた。皆川おさむの「黒猫のタンゴ」とドリフターズの「ズンドコ節」も。父は「ワシが悪かった」とも「かんべんしてくれ」とも言わず、はしゃいだ理由もまったく説明なしだった。
父の暴力は私が中学二年におさまった。どうでもいいことで殴ろうとしたので、私が「気がすむまでやったら!」と、畳の上に大の字になり、開き直ったのだ。怒り出すと手がつけられないのは変わらなかった。特に、父に親きょうだいのことを聞くと「子どもがそんなこと聞くな!」と怒鳴り、黙りこむ。ワケがわからない。
私の高校の部活仲間の名前が「ゆきこ」だと聞き、父が「悪い名前じゃ」とわめいたこともある。それがなぜか、うっすら想像できたのは、父がガンで亡くなって七、八年も後のことだった。
ある日、黒いスーツを着た中年男が訪ねてきた。
「お父さんのお姉さんが亡くなりました。お父さんの代わりに遺産がもらえます」と言う。
私はキツネにばかされた気分だった。生前、父とつきあいがあった伯母はピンシャンしている。娘も二人いる。
「ご長女の雪子さんですよ。二度離婚して、子どもさんがおらず、ひとり暮らしでした」
親きょうだいとつきあわず、死んだ伯母の名前は「ゆきこ」といった。
さらに驚いたことには、もうひとり相続人がいた。母が違う、腹違いの兄である。
ごく平凡な、四国の農家にそんなメロドラマがあったなんて、私は信じられなかった。
祖父は巡査で、瀬戸内海の島や広島に赴任していた。ケガをして入院中、看護師の女性と恋に落ち、男の子を授かり、じぶんの息子だと役所に届け出た。祖母が四人の男の子を産み、相ついで亡くした時期だ。私は祖父母の人生を思った。ふたりとも私が生まれた時には墓の中だった。
雪子伯母の預金は、家庭裁判所の調停にかけ、権利のある者で平等に分けた。
そのすぐあと、父の姉に誘われ、食事会をした。伯母は初めて重い口を開いた。
「おじいさんはおとなしい、ええ人やったけど、おばあさんはきつい人でな。男の子を木の棒で叩くんよ。庭の木にしばりつけたこともあった」
父というパズルのピースが埋まった。親への怒りを私たちにぶつけていたのだ。もちろん父はなぜじぶんが荒れるのか、考えたこともないだろう。だからあんな風にしか生きられなかったのだ。
雪子伯母にもらったお金から、私は妹と費用を出し合い、父の墓を建てた。それまでは漬物の重しに毛がはえたような石を地面にちょこんと置いただけだった。
それからまた時が流れ、母も亡くなった。父では苦労したが、孫の顔も見られて、そこそこ幸せな80年だった。そう思いたい。
三年前の秋、父の命日に菩提寺で三十三回忌法要をした。法事はこれでラスト、弔いあげである。墓の前で手を合わせ、ふと見上げたら、灰色の雲の切れ間に、すんだ青空が広がっていた。父も気の毒な人だった。ようやくそう思えた。やっと私の心から憎しみが消えた。
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