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戸籍を読む 亡霊との和解

ふと思いたって両親の上の代の戸籍をさかのぼれるところまで取り寄せてみた。私は亡父からは、親きょうだい、ましてや先祖についてなど、聞いたことがなかった。特に語ることのない平穏なものだからかと思いきや、意外な事実にやっと気がついた。

郵送請求で届いた古い戸籍を改めてじっくり確認してみると。いちばん古い戸籍にある高祖父、ひいひいじいさんは、なんと、他家から養子に入っていた。その妻の高祖母、ひいひいばあさんも他家の人。つまり、血縁で続いて来た家系ではない。ひいいいい、である。

さらに見ると、高祖父と高祖母の間に生まれたのは女子だけで、長女の曽祖母は、これまた他家から婿養子をとった。まったく思いもよらなかった土地の、親しみのない苗字の家と血がつながっていた。

なんだか新鮮。不思議な感じ。おおおお・・という思いがした。

その間に生まれたのが祖父の諦之助である。

諦之助が五歳の時、母親が病死した。その父の曾祖父は後妻を迎えるも、その女性とは一年あまりで離婚、しばらくたって別の女性と再婚し、一女をもうけた。諦之助は甘えたい年ごろに甘えられず、ひどく寂しかったに違いない。心の中に砂漠のような愛情の飢餓を抱えてしまった。

ずっと後年、曽祖父が亡くなり、諦之助が家督相続すると、再婚した女性と長女は婚姻関係を解消し、別の戸籍を作っている。諦之助との間に、感情的な対立があったのか、なかったのか。理由はわからない。

その前に、諦之助は警官となり、つると結婚した。当時だから、恋愛ではなく、誰かがお膳立てした見合いだったと想像する。

諦之助は警官として広島に赴任し、瀬戸内海の離島を転々とした。妻のつるは夫と生活を共にしながら、長男、次男、長女を産んだが、みな幼くして亡くなった。子どもが病気であっけなく亡くなる時代。次男が亡くなったすぐ後、諦之助は怪我で入院し、看護師の女性と出会い、一世一代の恋に落ちた。その女性との間に男の子が生まれ、諦之助は認知した。

祖母つるはどんな気持ちだったろう。これも想像するしかないが、いちばん支えてもらいたい時期に、夫の心は別の女性にあったのだから。そしてまた、正式に結婚できなかったその女性も、どんなにか苦労したことか。

この女性は若死にし、間に生まれた男の子は諦之助を頼ったが、つるが反対したのだろうか、追い返され、母方の姉妹に育てられたそうだ。この人は苦労の末、安定した企業に良い職を得、そして何よりも、賢く優しいすばらしい女性と結ばれた。私が会った時には、立派な一軒家を構え、従姉も優秀で孫にも恵まれ、幸せそうでほっとした。

つるが生来きつい性格だったのか、諦之助の先の行動で怒りを抱え、暴力的になったのかわからない。ともかく、夫婦は離婚せず、そのまま死ぬまで添い遂げた。諦之助が松山市の実家に戻ってから生まれたのが、六男と末っ子の七男の父である。

父の死後、母の姉にあたる伯母から聞いた話によると、つるは怖い人で、子どもが言うことをきかないと庭木にしばりつけ、折檻したという。しつけという名の暴力が虐待とは言われない時代でもあった。その暴力から父は感情表現を学び、妻子に暴力をふるう男になった。父は環境にひきずられたのである。そして環境にひきずられるじぶんの弱さと向き合えなかった。

祖父母も、ただ、時代の中で精いっぱい生きただけである。江戸から明治になり、家が国家を支える単位であり、誰もがどこかの戸籍に入る時代、家督相続した祖父は祖父なりに責任を果たそうとし、あるいはひとりっ子で寂しかった反動かもしれないが、十一人も子どもを作ったが生き延びたのは五人。ひとりの息子は成人するも、国の戦争で兵隊にとられ、帰ってこれなかった。

古い戸籍謄本を見ているうちに、それぞれの人生が伝わってきた。みんな、そういうふうにしか生きられなかったのだ。みなそれぞれに彼らなりの事情があり、その時々、最良の判断だと思って選択し、人生を生きていった。

いわば亡父の難しい性格やひどい暴力の原因を作った存在として、私は祖父母を軽く恨んでいたが、悪い感情は消え、わが家にも人の営みがあったのだと他人事のように感じるようになった。

私は子どもに恵まれず私だけで人生が終わる。なんとなく寂しいが、それもまたよきかな。妹や、祖母違いも含め、いとこたちを通じて命はつながっていく。

心の奥でひっかかっていた問題が整理でき、さっぱりとした気分になった。

まっさらな気持ちで、この先の日々、一日一日を味わうことだけ考えよう。なんてね。

写真はアルゼンチン ロスグラシアレス国立公園 ペリトモレノ氷河(2005年2月)

最後まで読んでくださって、ありがとうございました!

                      2022年3月22日©敷村良子

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