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死者の帝国

お盆なので。そんな話題を。

AIによって、故人を再構築し、仮想的なコミュニケーションを半恒久的に可能にする技術が実現化しようとしている。僕にはこれが怖くて怖くてたまらないのだ。

それは決してディスプレイに写された生気のない故人の顔が無機質に動き出し、人工音声の混じった声で我々に話しかけてくるその光景が不気味であったからではない。(いや、無論それもあるが。しかし、そんなものは技術の進歩でどうとでも解決されうる問題だ。)

そもそも、ヒトという存在が生まれて以降、死というものは常に隣人であった。
そして、死が彼岸へと人を誘う度、遺された人々は、彼岸へと渡ってゆく故人を悼み、「安らかであれ。」と願ってきた。

「安らかであれ。」それは死者のための言葉であると同時に、遺された者たちのための言葉である。
どうか安らかであってください。そしてこれからの我々が歩む道を静かに見守っていてください。
それはつまり、傍観者として、此岸を侵すことなく眠っていてださい、と。そういう意味を孕んだ言葉なわけだ。

かつて伊藤計劃は、死者の国を
「特定の領土を持たない国家。個々人の記憶をノードとして、国家と国家、人と人との関係性の中にのみ存在する仮想の帝国。」
であると称した。
また、「人は死ぬ。しかし死は敗北ではない。」アーネスト・ヘミングウェイはそう語った。

人は死ぬと肉になり、そして緩やかに無へと還元される。それは事実だ。
しかし、無へと還るのは肉体のみであり、死者が遺した言葉、物語、イデオロギー、ミームは遺された者たちの記憶の中に遺りつづける。

そして、脳の中にある死者という存在は、ときに強烈な力を持って、我々の前に顕現するのだ。
無論それはゾンビや、ネクロマンシーによって現れるのではない。
そんな非科学的なものの手を借りるまでもなく、死者の情念は常に現実の世界、つまりは生者の生きる世界を常に侵食している。

かつて大日本帝国が、ドイツ第三帝国が、そして現代でも過激派テロリストが、故人が作り出したイデオロギーと、その上に積み重なった犠牲に駆り立てられ、その骸の山の上に自らの身体を積んでいったことを引き合いに出すまでもなく、故人の言葉、存在は我々を突き動かす。それは我々がヒトという存在である以上、不可避の縛りであり、それを否定することができるのは、その事実に無自覚であるからでしかない。

故人は、過去は、歴史は、我々を縛る。
しかし、それでも、我々は死に直面したとき、それでも前を向いて生きなければならない。

我々が墓へと足を運ぶのは、身に抱えて生きていくにはあまりにも重すぎる情念の置き場を求めているからだ。
炎天下の元、ジリジリと熱された安山岩の塊をインターフェースとして故人を想い、それと同時に、此岸での近況を報告することによって、故人が「安らかに」眠っていられるように故人を説得することで、抱え込んだ有り余る情念を汲み取ってもらい、身軽になって此岸での生活へと戻る。その儀式を我々は必要としているのだ。
要は、「墓参り」とは彼岸と此岸を分かち、適度な距離を維持し続けるための儀式であるということだ。

私がAIによる死者との対話、その風景を見たときに感じた悍ましさ、それは我々が墓参りや葬送、祈りや遺品整理によって、適度な距離を保ってきた彼岸が、向こうからこちらへと能動的に歩み寄ってくる予感を感じたこと起因する恐怖だ。

それどころか、AIには故人の想いだけではなく、遺族や、プログラマー、プランナーなど、多くの第三者の意思が容易に乗っかってしまうのだから、よりタチが悪い。
商品として神格化された故人、そして過去と歴史が此岸を侵す。それは我々を容易に狂気へと駆り立てることは想像に難くない。
僕はその瞬間が当たり前に訪れるのが怖くて怖くて仕方ないのだ。

私はこの夏も、大阪府の山奥にある先祖の墓を訪れ、「安らかであれ」と願った。

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