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12月13日の北欧の伝統的な聖祭『聖ルチア祭』と『聖ルチア』にまつわるお話


1.12月13日は『聖ルチア祭』の日

12月13日は『聖ルチア祭』の日。
304年の12月13日に殉教した、聖女ルシア(ルチア)に由来する伝統の聖祭が北欧5カ国(スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェー、アイスランド)を中心に行われる日です。

また、12月13日は旧暦で冬至にあたり、1年で最も夜が長い為、北欧諸国の古からの信仰である太陽の再来を願う冬至の祝祭『光の祭』と、ラテン語で「ルシア」は「光(Lux)」を意味することから、聖ルチアの殉教日と光の祭りの二つが結びつき、現在に伝えられる『聖ルチア祭』が誕生したといわれています。

北欧でも聖ルチア祭が行われる代表的な国であるスウェーデンでは1700年頃まで古くからの言い伝えで12月13日の冬至の夜はとても危険とされ、真夜中に精霊や亡霊が復活し、動物が人間のように動き回り話し出すと信じられ、恐れられていました。

この冬至の翌朝、朝最後に起きた人は風変わりで奇妙なコスプレをしなければならないという一種の罰ゲーム的な風習が生まれ、1700年代から1800年代にかけて広まったのが、ルシア祭の起源ともされています。

ルシア祭では白い衣装に赤い紐を腰に巻いた子供達が、手に蝋燭を携え、伝統的な聖ルシアの歌を歌いながら教会や街を練り歩きます。

先頭を歩く聖ルシア役の少女は頭の上にロウソクとコケモモの小枝の冠を被り、後に続く侍女たちも冠以外は同じ装いです。 星の少年達と呼ばれる子供達もルシアと侍女に続いて同行します。

聖ルチア祭にちなんだLussekatt(ルッセカット)『ルチアの猫』という名のサフランパンを食べる伝統もあります。昔のドイツでは、悪魔が配っていたパンを『悪魔の猫』と呼んでいたとされ、そこから派生して聖ルチアのパンを『ルチアの猫』と呼ぶようになったとか。

家庭での聖ルチア祭の様子を描いたカール・ラーションの『聖ルチアの日』
こちらでは、一家の長女が聖ルチア役となって、姉妹と共にコーヒーとルッセカットを運ぶ様子が描かれています。

『聖ルチアの日』カール・ラーション

聖ルチア祭にまつわる、聖ルチアの伝承では聖ルチアは貧しい人々を救う為に、食料品や私財を彼等に届けようとし、その際、両手により多くの救済品を持てるよう、蝋燭を冠にさし、頭の上に載せたとされ、この蝋燭の冠が現在、聖ルチア祭の象徴となったという説があります。

では、ナポリ民謡『サンタルチア』にも歌われる聖ルチアとはどのような生涯を送った聖人だったのでしょうか?

2.聖ルチアの生涯

『聖ルチア』フランシスコ・デ・スルバラン

聖ルチアはキリスト教会初期の殉教者、聖人で、目および視覚障害者、シチリアの守護聖人とされています。

ルチアとはラテン語のLux(光)から派生し、前項の聖ルチア祭でも記述しましたが、「光明」という意味をもちます。

聖ルチアのイメージ(2024年12月13日撮影)

彼女の生涯は不明瞭な点も多いのですが、現在の通説によると、紀元3世紀頃、前後300年間の長きに渡ったローマ帝国のキリスト教迫害末期にシチリア島のシラクサで生まれ、ディオクレティアヌス帝の時代に殉教したとされています。

『聖ルチアの物語』 クゥリツィオ・ディ・ジョヴァンニ・ダ・ムラーノ

貴族の家系に生まれ、両親はいずれもカトリック信者で、ルチアを掌中の珠のごとく慈しみ育てましたが、父が早く世を去った為に、ルチアの母であるオイチキアは娘の身を堅めようと、ルチアの美しい瞳に魅了され、かねてより結婚の申し込みをしてきていた貴族の青年の縁談を承諾しました。

ルチアは既に熱心な信仰を持ち、イエスキリストに身を献げ、終生貞操を守る誓願を立てていた為、この縁談に当惑したものの、その事を打ち明けては母を苦しめてしまうと一人小さい胸に案じ、神の助けを願っていました。

ところが間もなく、母であるオイチキアが重い病を患い、なかなか回復が見込めない状況に陥りました。

すると親切な近所の人が、
「50年程前に殉教した聖女アガタの墓では、訪れた病人が奇跡的に治るといわれている。あなたも参詣してはどうか」とオイチキアに勧めてくれたので、オイチキアはルチアと共に聖アガタの墓参りをし、熱心に祈った所、たちまち病は全快しました。

伝説によれば、その時、聖アガタが現れ、ルチアに「あなたは自身の力で天におわす神にお願いしてお母様の病を治すことが出来るのに、どうして私に取り次ぎを求めたのですか?」と告げたといわれています。 

ルチアと母はこの奇蹟に非常に喜び、主イエス・キリストと聖アガタに心からの感謝をささげ、ルチアは母に「この御恩に報いる為にも、わたくしは何かよい事をしなければならないと思いますが、実はわたくしはかねてより生涯貞操を守り、神にお仕えする誓願を立てておりますので、その通りの一生を送りたいと思います」と胸の内を明かしました。

母オイチキアはこの言葉に非常に驚きましたが、根が信仰の篤い人だった為、娘の望みを許しました。
しかし、結婚の為に用意していた資金を今すぐ貧民に施そうというルチアの考えには反対し、死後にこれを寄付するようにと勧めました。

しかし、ルチアは
「善行は死んでからするよりも生きている内にする方が神の御心にもかない、功徳にもなると思います」と強く主張し、遂には母を納得させ、自身の財産をことごとく貧しい人々に分け与えたのでした。 

ルチアの婚約者であった貴族の青年は、これを聞いて烈火のごとく怒り狂い、彼女がカトリック信者であることをパスカシオという知事に密告してしまいました。

パスカシオはすぐさまルチアを裁判所に連行させ、その信仰を棄てるように命令しましたが、それに屈服するようなルチアではありません。彼女は正々堂々と道理を説き、断固として信仰を捨て去る事を拒絶した為、パスカシオはルチアを屈服させる為に、配下に命じてルチアを辱め拷問を与えようとしました。

ところがルチアが天を仰いで神の御加護を求めると、その身体は急に石の如く重くなり、屈強な大男達が5、6人がかりで押しても引いてもびくともしないばかりか、牛に引かせてさえも、その場からルチアを少しも動かすことは出来ませんでした。

業を煮やしたパスカシオは、今度は周囲に薪を積み上げ、ルチアを火炙りにしようとしましたが、不思議な事にルチアの体は火にも焼かれる事がありませんでした。
ほとほと困り果てた揚げ句、パスカシオはルチアを斬首に処する事にしましたが、ルチアは剣で首を刺されてもなお数時間生き続け、その間に神の聖体拝領を受け、安らかに殉教しました。

『聖ルチアの埋葬』カラヴァッジョ(1608)

ルチアが目と視覚障害者の守護聖人とされる所以は諸説あり、拷問の際に目をえぐられても、神の守護によって奇跡が起き、その瞳は光を失うこと無く、その命が尽きるまで全てを見る事が出来たという説と、その美しい瞳に魅了された青年の煩悩を打ち消す為に自ら両目をえぐったが、神の守護により視力を失うことなく全てが見えていたという説が伝わっています。

その為、聖ルチアの肖像画や聖像は黄金の皿に眼球を載せた姿で表現されています。

黄金の皿と眼球
聖ルチアのイメージ(過去撮影)


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