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「読書体験」を味わい楽しむ『本を読むときに何が起きているのか』レビュー

本の途中で、あるいは読み終わったあとで、私たちは想像をめぐらせ、登場人物の人生に思いを馳せる。『羅生門』では逡巡の末「盗人」となった下人がその後どうなったのか、「下人の行方は、誰も知らない」と結ばれたその後日譚を、あれこれ考えずにはいられない。面皰にきびを気にする暇もなく、盗み盗まれ、かろうじて生きながらえているのだろうか、と。

このように本は私たち読み手の想像を刺激する。しかしこの時、私たちの中でいったい何が起きているのだろう? 分かるようで分からない、この現象に向きあった本を見つけた。


一瞥して、これはただの本ではない、と感じる。

なにしろ分厚い本のなかにテキストが並んでいるものの、その様子は尋常ではない。立ち込める煙や濃霧、インクの染みがテキストを覆ったかと思えば、検閲よろしく塗りつぶされた文字、乱雑に落書きされた文字が散らばる。文字の大きさは不揃いで、文は縦横無尽に配置され、見開きに誰かの叫び声だけが記された頁もある。

「ああああああああああ!」

……いったいこれは何だろう?
あまりの自由さに面食らう。が、奔放なのはテキストだけではなかった。「耳だけ」「玉葱だけ」が描かれた頁、ゲームコントローラーの絵、アメコミの挿絵……、繰るごとに驚きがあり、次が気になってしまう。しかし、これらの意図は何だろう?

著者はアメリカの老舗出版社で活躍する装丁家、版元は出版界のファッションリーダー(私見です)、フィルムアート社だ。

なるほど、そのブックデザイナーの才を存分に活かすための「ビジュアルブック」らしいーー。だが、それだけではない。この本は読書体験を実際になぞるように出来ている、とんでもない本だ。

読書体験を思い出す時、私たちは連続展開するイメージ群を脳裏に見ているのだ。

たとえば『アンナ・カレーニナ』を読んで、アンナの「濃いまつげ」や「ふくよかさ」を思い、彼女を美しいと感じることが出来る。

登場人物は暗号である。
そして物語は省略によってより豊かになる

しかし、人物の特徴はすべて●●●書かれているわけでない。アンナの行動や周囲との関係から、読者それぞれが思い思い彼女のスケッチをしていく。

初めて本を開く時、そこにあるのは境界的な空間だ。あなたは、あなたが本を手に持っているこの世界にはいないし、あの世界(文章が示すメタフィジカルな空間)にもいない。

読書の際に経験することの多くが、ある感覚が別の感覚と重なったり置き換えられた、共感覚的な出来事である。音は見え、色は聞こえ、光景は香る。

テキストが発する信号を捉え、それを境界で●●●再生する。その再生に「定法」はなく、現実とも非現実ともつかないモノゴトが、私たちの記憶や経験の断片を混じえながら、浮かんでは消えていく。そこでは何を思いついてもいい。「耳偏愛」でも、「玉葱偏食」でも構わないのだ。称賛されないかわりに、批難もされない。承認欲求や営利主義にまみれたSNSの、愚かしい「評価競争」とは無縁の世界で、想像をただ自由に、無心に広げる楽しみに満ちている。

羅生門を去った下人は、その後「盗みの才」が開花して盗賊団の頭領となったかもしれない。いや、さんざん盗みを働いたあとで空しくなり、出家したのかもしれない。

想像は、立場によって気分によって、好きに、気ままにーー。

なるほど、だから本はおもしろい。
だから読書はやめられない。


*本コンテンツの画像は生成AIツール (Canva AI) を使用して作成しました。


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島野史己
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