ヒーローじゃない20
静かに、扉の前に立つ。自分の部屋の扉ではない。その隣にある、チアキの部屋だ。
時刻は既に二十三時を回っている。リビングの電気は全て消しているので、この部屋は月の柔らかな光だけが頼りだった。今日は満月に近いので、いつもよりはほんの少しだけ明るいかもしれない。
夜勤があればきちんと電気を点けるし、二人の内どちらかが待機しているが、今日は力也が夜勤なのでこの家は久しぶりに完全消灯していた。
チアキの部屋の前に立って、早数分。アマネは未だに動くことが出来ず立ち尽くしていた。今朝彼にかかってきた電話がずっと頭を離れず、しかし何か行動を起こすことも出来ないままこの時間になってしまった。いつもであれば諦めて眠ってしまう所だが、今日だけはそれをしてはいけない気がしたのだ。寝て起きて明日になれば、きっとまた大事な話は持ち越されてしまう。もう、時間がないのに。
小さく深呼吸して、俯いていた顔を上げた。仮にもヒーローの端くれ、度胸ならとうの昔に備わっている筈だ。
こんこん、と二回ノックする。数拍の後に扉が開いて、中からチアキが顔を出した。
「どうしたの? 夜勤でもないのに珍しいね」
「……話があるの。今、良い?」
真剣な表情で目を合わせると、それだけで何かを察したのか彼は一つ頷いた。
「分かった、じゃあリビングに行くよ」
「ううん、移動はしなくて良い」
「え?」
驚くチアキから視線は逸らさない。揺れてしまったら、それこそ意味がない気がしたのだ。
ずっと考えていた。どうすれば彼の領域に踏み込めるのか。アマネにとっては相応の覚悟を持って話をしなければならないことを、感覚が麻痺して理解することが難しいチアキに、どうしたら伝えられるのか。
踏み越えるしかないのだ。その為にはまず、形から入るのが良いと思った。随分と短絡的な方法だとは思うが、足踏みしているよりは何倍もマシだろう。
「チアキの部屋で話がしたいの。ダメ?」
その提案に、彼は分かりやすく困った顔をした。
「冗談……じゃないんだよね」
「私がこんな時に冗談を言うように見える?」
「意味分かって言ってるのか、怪しいなとは思うよ」
「意味?」
首を傾げると、彼はドア枠に寄りかかって腕組みをした。まるで今は絶対に部屋に入れないと止められているようだ。
「ねえ、アマネさん。俺、アマネさんのことが気になってる。もの凄く」
「それは……どういう意味で?」
「同業としても、男としても。結構分かりやすい方だと思ってたんだけど」
「……それこそ、冗談かと思ってた」
彼は確かに軽口を叩く時もあったが、コミュニケーションの一つくらいにしか思っていなかった。チアキはどちらかといえば根明の部類だ。こんなことにさえなっていなければ、もっと手放しで明るい人生を送っていただろう。
少なからず嬉しい情報の筈だが、どうにも素直に喜べない。微妙な顔つきをすると、チアキは目に見えてうな垂れた。
「だろうね。でも……楽しかった、だからそれで満足してたよ」
「うん?」
「そんな男の部屋に入るのは、おすすめ出来ないよ。アマネさんが嫌だと思うことはしたくないけど……最後まで紳士的でいられる自信もない」
分かりやすい忠告に思わず小さく笑ってしまう。彼がアマネに対して気があると知ったのは初めてだが、この時間に女が男の部屋を訪ねて、しかも入りたいと言い出す行為そのものについてはとうに分かっていたことだ。何が起きても良いよう、寝巻きの下は相応に準備をしているのだと知ったらこの男は一体どんな顔をするのだろうか。気になったが、口にするのは止めておく。今夜はそれが目的ではないのだ。
「好きにしたら。でも、私の話を聞いてからって約束して」
「参ったな……これじゃ追い返せないか」
「諦めて欲しかった?」
「……まさか。だから困ってるのに」
ドア枠に寄りかかっていた身体を起こして、チアキは部屋の中に戻っていく。扉は開いたまま、一応入ることを歓迎してくれているようだ。くすりと笑って、アマネは中に入ってゆっくりと扉を閉めた。
部屋の作りはアマネの私室とほとんど同じだ。ベッドも調度品もさして珍しいものではない。宮前家と違ってアマネの家を訪れる客は多くないが、それでもたまには客室が必要になる時もある。元々そんな感じで時々使っていた部屋だが、今はすっかりチアキの部屋だった。大きく変わった所は何もない筈なのに、部屋を包む雰囲気や空気が彼と良く似ている。
「それで、話って?」
今度はデスクに寄りかかりながらチアキが問いかけてくる。自信はないなりに、それでもあくまで紳士的であろうと努力はしているようだった。
ただ、そうなるとアマネが座る場所がなくなってしまうことに気を回せていないくらいに動揺はしているようで、それもまた笑いを誘ってしまう。デスクの椅子にでも座れれば、アマネはベッドに近付かなくて済むだろうに。
ほんの少しの悪戯心が芽生えてわざとらしくベッドに腰掛ける。すると彼はまた驚いて、それから自分の選択ミスを悟ったのか気まずそうに視線を逸らした。かといって今更場所を変えるのも不自然だ、言い出せはしないだろう。
「まずは、謝らせて欲しい」
「ん?」
「貴方のことを良く知りもしないで、勝手に卑屈になって、強く当たって。自分が……どれだけ恥知らずかを思い知った。本当に、ごめんなさい」
「それは、良いよ。気にしてない。そう言われても仕方ない立場だって理解してるから」
達観とも諦念とも取れるチアキの言葉に「違う」と首を振った。
「貴方はちゃんと努力してたし、それに見合う実力も持ってる。うわべだけのヒーローなんかじゃない。私は……ずっと、勘違いしてたから。大した仕事もしてないくせにって。見当違いの嫉妬だったって、魔獣に襲われた時に思い知った」
「……そっか」
穏やかに微笑むチアキは、純粋に嬉しそうだった。珍しくアマネが手放しで褒めたからだろう。いつもは皮肉交じりに言うことしかしていなかった気がする。それも反省すべき点だった。
「……私ね、本当はヒーローになったら外国に行きたかったの」
一度チアキから視線を外して自身の手元に視線を落とす。細くて華奢な手、彼とは大違いだ。
「外国?」
「特に一種は万国共通でしょ? 試験に受かって、国内である程度実績積んで。そうしたら、フリーになって国とか関係なくヒーローを必要としてる所に行きたいって思ってた」
この国は一応先進国に分類されるので、魔獣対策はある程度万全だ。ヒーローは精鋭が多いし、セキュリティも都心部などはAIによる高度プログラムで鉄壁の防衛が築かれている。
その反面、発展途上国はまだまだ魔獣に対して脆弱性がある。昔からある対症療法的な措置でどうにか持ちこたえてはいるが、魔獣は繁殖力が高いし、新種も毎年確認されている。小国では下手したら簡単に潰されてしまうかもしれないくらい、大きな国際問題だった。
学生時代に受けた授業でこうした世界の現状を知った時、ヒーローになるという道を見出した。国や自治体に属するのではなく、あくまで身軽に動けるフリーの立場で本当にヒーローを必要としている場所で自分に出来ることをやってみたいと。決して簡単な道ではないと今も思う。しかし、十代であった当時はその夢を絶対に叶えられると理由もなく確信していた。
しかし、それが叶うことはついぞなかった。アマネには魔獣を退ける才能はあったが、殺す才能が致命的に欠落していたからだ。
どんなにトレーニングや食事コントロールをしても全く筋肉がつかない腕は重い剣や槍はとても持てなかったし、銃は反動が耐えられない。比較的軽量と言われる棍や武器を必要としない体術も魔獣を殺せる威力を出せない。誇張でもなんでもなく、武器という武器を全て試した。ほんの少しでも希望を見出せたものは昼夜を問わず練習した。それでも、一種の試験に合格出来るほどの力には繋げられなかった。
二十歳を過ぎて少し経った所で、努力し続けることに疲れてしまった。両親は頑なな娘に対し心配を通り越して煩わしさすら感じていることには薄々気付いていた。だから逃げるようにしてこの町の求人に応募し、とりあえずの就職先を得たのだった。
そんなアマネの話をチアキは黙って聞いていた。その顔にはもう笑顔はない。怒っても悲しんでもいない、ただ何と言えば良いのか分からないといった顔つきをしていた。
「……今も、諦めきれない?」
チアキの問いに少し考えるが、明確な答えは出せそうになかった。自然と苦味を帯びた笑みをしてしまう。
「どうかな。未練が全くないと言ったら嘘な気はする……でも、ここの人達が大切なのも本当」
完全に打算で選んだ居場所だが、結果的にこの町の存在はアマネを大きく成長させてくれた。
数少ない人員と予算、そして最新とは縁遠い設備でいつ襲ってくるか分からない魔獣から町とそこに住む人々を守り切る。都心はどうか知らないが、少なくともこの町のヒーロー業務に定型的なマニュアルなど存在しない。いついかなる時も柔軟に、迅速に、多角的な視点を持った判断を要求される。それはかつてアマネがやりたいと思っていた夢にほんの少しだけ近い形で、しかし想像よりも圧倒的に大変だった。
それでも、充実している。だからアマネは今もヒーローとして在り続けられるのだろう。
「うん、なんとなく気持ちは分かる気がする」
「力也さんの人使いが荒いのだけが玉に瑕だけどね」
「あはは、確かに」
ひとしきり笑った所で、チアキは「分かるなあ」とまた同じ言葉を口にした。ただ繰り返しているように見えるが、なんとなく先ほどとは意味が違う気がした。
「俺も誰かを守りたかった。新聞とかテレビで見てカッコいい! って、安直な理由だけど。少年は誰もが一度は夢見るから」
「ふふ、今も男の子のなりたい職業ランキング上位だもんね」
「そうしてライセンスを取って、運良く一種にもなれて。でも、現実は俺の理想とはかけ離れてた」
以前、力也が話したことを思い出す。国に雇われたヒーローは、所詮兵隊稼業なのだと。
「毎日惨い現場に派遣されて、剣を振るって、人の血なのか魔獣の血なのか分からないものを浴びて。少しでも気を抜けば簡単に大怪我して。知らなかったよ、人間って身体に穴空いても処置が上手くいけば死なないんだ」
「……怖くないの」
今更過ぎる質問だ。恐怖に足を竦ませていたら、それこそ簡単に死んでしまうだろう。
それでも、聞かずにいられなかった。地獄のような、そんな場所で、恐怖以外の何を感じられるのか想像も出来なかった。
「そういう、訓練を受けさせられる。恐怖を取り除く……というか、感じなくなる訓練。内容は聞かない方が良いよ、俺も聞かせたくないし」
「異常よ、そんなの……」
「アマネさんが言うなら、そうなんだろうね」
ゆるりと首を振って、チアキはデスクから離れるとベッドに座るアマネの傍に寄る。隣に座ってきたことでほんの少しだけスプリングが軋んだ。
「それでも、必要な仕事だよ。魔獣の大群を潰すこと、絶対に誰かがやらなきゃいけない。でも……人間は弱いから。結構簡単に限界を迎える。俺にもその日が来たってだけ」
「馬鹿言わないでよ……そんなの、絶対許さないんだから……」
絞り出すように呟く。明確な解決策はない。どうにかしてやれる力もない。それでも、彼がいなくなってしまうことは耐えられない。険しい顔をしていると、チアキは淡く笑った。
「優しいな、アマネさんは。そういう所を好きになったんだよ、俺」
「こんな時にふざけたこと言わないで……」
「ふざけてないよ。ねえ、一つ教えて。こうやって傍に来てくれたのは、やっぱり俺に同情したから?」
視線を上げると、思っていたよりも近い位置に銀の両目があった。あの夜を思い出す。あの時も、チアキは同情という言葉を使っていた。同情でも嬉しいと、穏やかに語っていた。それこそ、馬鹿を言うなと罵りたくなる。そんな感情で男の部屋に上がりこむ程、安くはないつもりだ。
「あの時は、そうかもしれないって思った。でも、今は違う」
「違うの?」
「ずっと嫉妬してた、私が持ってないものを持ってる貴方に。今まではそれに目を取られてたけど……やっと、分かった」
厚くて硬い嫉妬の壁。それを取り払えたことで、見えてきたものがある。どうして今まで気づかなかったのだろうとすら思えるくらい、それは確かで大きな感情だった。
「ずっと……貴方に憧れてた。誰かを救える確固とした力を持ってる貴方に。私も、やっぱり誰かを救いたいって。そう思ったの」
何故だか、ほんの少しだけ涙腺が緩んだ。憧憬を認めたその先に、また新たな何かが見えたのだ。
嫉妬して、憧れた、青葉千晃という存在。何も知らなかったアマネに彼は沢山のことを教えてくれた。本当のチアキはこんなにも強くて優しくて、温かな人だった。
アマネの返答に至近距離で彼は瞠目する。銀の瞳が見開かれ、そうして柔く細められた。
「……大丈夫だよ、もう叶ってる。十分過ぎるくらい」
「……チアキ?」
名前を呼ぶと、大きな手が伸びてきてアマネの頬を包み込む。緩く撫でられて擽ったさに思わず目を瞑ると、見計らったかのように瞼に口付けを落とされた。
「ごめん、やっぱり今夜は返してあげられそうにないな」
「変なの、私の家なのに」
「それもそうだね」
笑いあって、どちらからともなくベッドに倒れこむ。少しの間はチアキの手や唇がアマネの髪や頬に悪戯をしていたが、やがて身体を起こしたチアキが横になったままのアマネを組み敷いた。
「最後のチャンスだよ。本当に良いの? 後悔しない?」
「くどい。男なら据え膳くらいありがたく頂いたらどうなの」
「アマネさんカッコ良いー……」
敵わないな、と呟くチアキに笑ってみせる。大丈夫、それも自分で望んだことなのだと伝わるように。
ゆっくりと、今度は唇が重なる。熱くて溶けそうな口付けに、アマネは誘われるように目を閉じた。
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