読書記録:『あなたの知らない脳──意識は傍観者である』

あなたの知らない脳──意識は傍観者である/デイヴィッド・イーグルマン
https://www.amazon.co.jp/dp/415050475X/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_KKTbEb4FD9VH6

私は一体何者だ?

カール・ユングが言ったように、「私たち一人ひとりのなかに、私たちが知らない別の人がいる」。ピンク・フロイドの言葉を借りれば、「僕の頭の中に誰かがいるが、それは僕じゃない」。

脳内に張り巡らされるネットワークは驚異的に複雑で、そのニューロン同士の結合部は銀河系の星と同じ数にも上るそうだ。

人々は「自分」というものを信じている。けれど一体どこまでが「自分」なのか。

熱いものに触れたとき反射的に手を引っ込める。これは「熱い」と思った瞬間に反射的に手を引っ込めていて、「熱いから手を引っ込めなきゃ!」と思う前に既に手は動いている。

今私はパソコンでブラインドタッチをしながらこの記事を書いている。どこにどのキーが配置されてどの順番で打つか、なんていちいち考えていない。ただ言葉を発するのと同じように、発する言葉が自動的にそこにタイピングされるかの如くスラスラとこの文章が書かれている。

自転車に乗るとき、最初はどんなふうにその自分が乗っているものを動かさねばならないか考えながら乗っていただろうが、慣れてしまえば喋りながら、音楽を聴きながら、スイスイと走らせることができる。いちいちペダルをこいで体重をこうかけてバランスを取って、とか考えながら走ったりはしていない。

人間は意外と「自分で意識しない状態」で物事をこなしている。

無意識化で行われる処理は膨大なもので、本当にいちいち気にしていないだろう。例えば目の前のお茶の入ったコップを持つとき、この距離だからこれくらい腕を伸ばさなければならない、腕を伸ばすにはこの神経を使いこの筋肉をこれくらい収縮させて、とか全く考えないだろう。一日のうちの殆どの動作は無意識化で処理されていると言える。

”意識”は一体何をしている?

殆どの行動が自動化されているなら、意識の存在理由は何だろうか。

確かに私達は何かを選択するとき、例えばファミレスでメニューを選ぶとき、カロリーだとかお腹の空き具合だとか今どんなものを食べたい気分かとかを考えて、決定を下す。

果たしてそこに”意識”は必要だろうか。

カロリーが少なく且つ適度にお腹を満たし今欲する味覚を満たすものをもし自動で選んでくれるなら、それでいいのでは?

まあこれは極端な例だが、人間日常生活選択の連続で「自分」で「意識」して選んでいるように見えて、結局その選択を選ぶために無意識下では膨大な情報のやり取りが行われ意識上に上ってくるのは僅かなものだろう。

”意識”が自分をコントロールしているようで、実は”意識”は最後の最後に残った情報を見せられているに過ぎない。

この本の中で意識は大企業のCEOに例えられているがその通りだと思う。末端が一体どんな仕事をこなしどう判別しているのか詳細に把握などできるわけがなく、CEOまで決裁が上ってくるものというのは本当に大事な案件だけで、それ以外は部長決裁や課長決裁で判断が下され処理されている。

CEOなのだからいる意味がないわけではないが、CEO自身何らかの経験者で大事な判断を任せられる人物ならともかく、我々は素人である。いや自分は医者だとかいや自分はこんな大学を出たとか言う方もいるだろうが、その前は皆純真無垢で無知な子供だった。そんな無知の頃からCEOを任せられていたわけで、その過程は生物として効率的かと問われれば首を傾げるところだ。

結局意識はわからない

結局意識の謎はわからないということがわかった。

とはいえ、いろんな興味深い症例が乗っていて非常に面白い本だった。てんかん治療でかつて脳梁を切る手術が行われていて、その患者の右脳と左脳は完全に別物になったが患者自身は健康体になった。ただし、右脳と左脳が分断されてしまったため、両目の間に壁を挟んで何かを見せると上手く画像処理が行われなくなる。健康的に両目とも見えていた患者が片目を失明してしまった。この両ケース、見えない方に何があるか勘で当ててくださいというと、偶然とは思えない確率で言い当てるのだという。一体脳には何が見えているのか不思議でならない。

サポートは新たな知識を得るための本代として使わせて頂きます。"こんな記事が読みたい"というリクエストありましたらツイッターまで!!