歳を重ねるほど「なんとなく」を大切にする
根拠は?
これは何を基に考えた?
社会に出ると、自分が起こす行動には責任とその行動を起こした理由を説明出来なくてはいけません。
例え自分がこうしたいと思っていても自分がしたかったからだけでなく、そこに会社にもたらすメリットを言葉で説明することが必ず求められます。
社会のなかでそういう生き方をしているとつい普段の生活のなかでもそういう思考になっていきます。
そして色々な言葉を理由に新しいことを始めなくなっていく。
何も得られない、しんどいだけと心より頭で無理やり言葉にし現状維持だけを望んでいくようになる。
それを老化と呼ぶのだと僕は思っている。
ただ年齢を重ねても元気な人ももちろん居て、そういう人たちに共通するのは「なんとなく」を大切にしていること。
なんとなく楽しそう、なんかわからないけどやってみたいという心の声を大切にしている。
それは子供の頃に似た、なぜそれをしたのかを説明出来ないことと似ている。
人の大半は幸せになるために生きている。
その幸せになるための手段はそれぞれにあるが、幸せと密接に繋がっている、あるいは同列にもなる「楽しい」に人は引き寄せられる。
そしてなぜ楽しいのかは何が幸せと同じくらいの難しいことだったりもする。
歳を重ねて言語化を求められそれをこなしていくうちに楽しいを言語化しようとするが、それが出来ず「なんとなく」の箱にしまったまま楽しいことから遠ざかっていく人が加齢と共に多くなる。
説明出来ないから楽しくないのではなく、説明出来ないから楽しいのだ。
それは幸せと楽しいの違いの一つにもなる。
幸せは言葉で説明出来た方が幸せとの距離はぐっと近くなる。
一方で楽しいは曖昧であればあるほど良い。
なんか楽しい、くらいでちょうど良い。
楽しいことは考えるのではなく、感じるものでその答えは頭の中にはない。
心の中にある。
いつまでも楽しく生きていくには、そんな頭で考えるスイッチを切り替えられる人が強い。
頭で考える瞬間と、心で感じる瞬間。
この2つを持ち合わせると新しいことに挑戦し、いつまでも若々しくいられる。
若々しく居ることは退屈しないことと同じだ。
退屈ほど苦しいものはこの世にはない。
退屈しないためには「なんとなく」の声を大切にする。
気になることとの距離をそのままにしない。
ちょっとでも触れてみる、やってみる。
そんな子供の頃なら当たり前だったことを今改めてやってみる。
その先に幸せが待っているかもしれない。