240302_演じることに助けられてきたのかも。
2024.03.02.Sat.
去年の7月から関わらせてもらっている宇治市文化センターの「源氏物語朗読劇講座」。
いよいよ来週に定例公演が迫っているということで、今日、最終稽古を終えました。仕事の都合で大遅刻、最後の通しにギリ間に合っただけでしたが、最後の稽古日、朝から猛特訓されたのがわかるほど急成長した子どもたちのお芝居にニヤけながら、なんかちょっとエモさを感じたのは、きっとこの半年を一緒に過ごしてきたからだと思います。
https://www.gekifuji.com/post/info240114
今回の座組、「呼んでほしい名前=あだ名」で呼び合うというルールでやっている。シアターゲームの延長で、だからよくあるパターンなんだけど、
講師で演出の中田さんが、このルールをはじめるときに子どもたちにかけていた言葉が印象的だ。
すかさず、ある中学生が「私も、こんなに喋るのここだけです!」と小学生たちに言っていたのが、頭に残っている。
別に、どっちが大切とか、学校が居づらいよねとか、そういうことではなくて、
居場所や拠り所はたくさんあった方がいいよねってことだと思う。
思えば、ぼくだってずっと「演じること」と「演じる場所があること」に助けられてきたのだと思う。
別に学校に居場所がなかったわけじゃない。友だちもいたし、誰かに虐げられることもほとんどなかったし、学校は好きだったし。
それに、中学生・高校生のぼくにとって、大人たちで溢れている稽古場は決して居心地が良かったとは言いきれない。
だけど、思春期のぼくは、心が不安定な時期のぼくは、まるでヤジロベエのように、演じることでバランスを取ってきたように思う。
学校ではちょっと大人な自分と、劇団ではまだまだ子どもな自分と。
リアルを生きる自分と、虚構を生きる自分の役と。
市場が発展している今、どこにいたって独りでは生きていけなくて、ぼくらは誰かと関わらないと生きていけない。
そして。たぶん、誰かと生きる以上、自分にとって完璧な居場所なんてないんだと思う。
学校は好きだったけど浅く広くの付き合いがほとんどだったし、稽古場の大人たちは怖かったけど大好きだったし。
だから、学校も部活も劇団も習い事も、いろんな居場所があって、拠り所があって、そういうところを行ったり来たりしながら生きていたからまっすぐ育ったのだろうし、
演劇とか音楽とか、“心を使う”ことを武器にしてきたから、心のバランスを取りながら生きてこられたのだと思う。
大学生以降、演じることでお金を得るようになってからは演じることにより真摯に向かうようになって、そのことで“心を削る”経験をしてきて苦しみの沼にはまっていったこともあるけれど、
少し演劇から離れて社会人になって、それでも演劇を創っているのは、生きづらい世の中を生きるにはやっぱり演劇が必要だからなのかもしれない。
知らんけど。
まじめな女の子が、元気な男の子が、そして今日は低学年の女の子が、ぽろっと「学校でこんなことを言われたんだ」と学校で揶揄われたことを話してくれることがあって、
彼らはケロッと冗談めかして話してくれるけど、声のトーンが普段じゃれあっているときのそれとは違うのはわかってる。
結局、ぼくは正しい返し方がわからないから「そっか」としか言えないけれど、
彼らが小さな身体でギリギリ抱えられるくらいの痛みとどうにか付き合っているのだというこということは、小学生経験者として、すごくすごく分かる。そして、そんなことが素直に言葉にできない中高生のことも。
一緒にお芝居をしていて、彼らの感受性が豊かなことも心がやわらかなこともわかるから、なおたまに無性に抱きしめたくなる(セクハラと言われる可能性がある年齢差になってきました)。
どうか、彼らにとってこの文化体験が、演じるということが、心の支えになっていますように。
そして、そういう場を守っていける・機会を創っていける大人でいなくちゃな、と思う。
26歳。舞台袖で女子にアラサーいじりをされたお兄さんは、颯爽と舞台に出ていった彼女たちを見ながら「歳の重ね方」をぼんやりと考えてた。
▽「宇治っ子朗読劇団⭐︎Genji」Instagramのアカウントで練習の様子が見れます。▽
https://www.instagram.com/ujikko_genji/
▽3月に本番を控えています。詳しくはこちらから。▽
https://ujishibunkakaikan.jp/pages/367/
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