想像を広げるってなんだろう_250126
2025.01.26.Sun.
今週は、なんだか寂しいお知らせが数件続けて入ってきて気づけば日曜日。
一昨日はお誕生日で27歳になったのですが、中学生との「何歳になったんですか?」「27歳」の会話で、アラサーを自覚しました。6と7の違いは大きいです。
思い出したこと
今週はいつも以上に、ぼくの身の回りでもいろんなことが起こったし、なんか世の中でもいろんなことが動いた週で、
いろんな情報も感情も否応なく体の中に入ってきます。
抱えきれないものは全部、ことばに出して書き置きしておこうなんて、
少し気取ってスマホのメモに走り書きをしたりしていたら、ある話を思い出しました。
うちの劇団のOBに俳優の遠藤憲一さんがいらっしゃるのですが、
なにかに寄稿いただく時や俳優を始めた頃の話をTVでされる時にしばしば出されるエピソードがあって。
「本をたくさん読め」
本読みでは漢字が読めず、みんなに笑われた初舞台。
そのとき、当時劇団の代表だった田村先生に言われたのは演技のことではなく、「勉強をしろ。努力しろ。小説を読め。感性を磨け。」だった
というお話です。
劇団フジが50周年を迎えたときに遠藤さんが寄稿してくださった文章にはこんなことが書いてありました。
想像とは何か?
なぜ遠藤さんのこの文章を思い出したのかは全くわからないのですが、
この話を頭の中でぐるぐるさせながら思い出したのは2年前に自分で書いた文章。
〈文脈=context〉の話をしています。
学生の頃、国語の授業で物語や小説をやっているときに
「どう受け取るかは受け手次第じゃないか?」なんて反抗的な声があったりしたのを思い出します。
その時、国語の先生がなんておっしゃっていたのかは全く覚えていませんが、
理屈としては「これは読書じゃなくて読解だから」みたいなことが模範回答なはずです。
我々が創る演劇も、結局どう受け止めるかは観る者に委ねるしかないわけですが、
少なくとも俳優の訓練をする時には役者の主観での受け止めを嫌い「答えは台本の中にある」と教えられるし、教えます。
もちろん、役づくりをしていると、書いていないことにも想像を働かせて掘り下げていかなくてはいけないことが多々あります。
でもその想像は決して、演じる者の身勝手な妄想ではいけないのです。
2年前にこの記事を書いたころも、後輩である木部に「どういう〈つもり〉でそこにいるの?」「どういう〈つもり〉でそうなったの?」と問いかけていた記憶があります。
「どういうつもり!?」というと姑も食いたくない夫婦喧嘩の常套句ですが、
これは、平田オリザさんが〈context〉を〈つもり〉と訳していたのがしっくりきたのが前提での聞き方。
結局「その科白や動きの根拠はなに?」ということなのだと思います。
その役は架空とはいえ生身の人間で、感情も思惑もちゃんとあります。
台本に書かれていることと役者が表現していることは辻褄が合っているのか。
俳優にとっての文脈への意識はそこにあって、
きっと「本を読め」のその先には、「台詞ひとつから広がる世界」への想像力があるのだろうと勝手に考えています。
〈演じる〉を学ぶ先に。
なんとなくですが、このことは何も演じることに限らないと思うのです。
私たちが、誰かと関わる時、何かを考える時、その相手の〈言葉〉や〈行動〉を「切り取って」「表面だけで」捉えてはいないでしょうか?
〈言葉〉や〈行動〉にはそれが起こった前後の〈文脈〉があるはずなのです。
その〈言葉〉や〈行動〉が、どういう〈つもり〉で出てきたのか、ってことです。
そしてそれは、時に私たちが簡単に追える文脈であることもあるでしょう。
だけど、時に簡単には追えない文脈のときだってあるはずなのです。
知らないうちに傷ついてしまった人、心を病んでしまった人にこれまで何人も出会ったし、
ぼくにだって、目の前の人を不本意に傷つけてしまったことがあります。
すごく簡単な言葉ですが、やっぱり〈想像力〉だと思うのです。
ちょっと立ち止まって、ちょっと〈想像を膨らますこと〉だと思うのです。
そういえば、数日前に劇団のホームページをメンテナンスしていたら、
ワークショップ事業の案内ページに「演劇が持つ(略)特性を活かしながら、子どもたちの生きる力、学ぶ力、考える力を育みます。」という文章がありました。
きっと「演劇」というのは、そういう意味でも、教育的にはいいツールなんだろうなぁと思います。
今週の“地味な”進捗
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劇団フジ大阪第32回6月劇場「Triangle(仮題)」の作・演出コラムです。本番(6/22-23)後1ヶ月のあいだ、リアルタムで稽古中に…
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