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アヘ顔で出勤(昇竜拳)

通勤電車で小説を読んでいたら、夢中になりすぎて乗り換えの駅を通過するという、こんなにお洒落なミスを朝からかましてしまって、もう、東京喰種に出してくれまいか?などと思いながら、知らない駅で小走りしていた。いつもであれば、通勤ラッシュの寂しさを誤魔化すために、マスクの下でベロを出して、時にはアヘ顔なんかしてみたりして、ぐでぐでとC6出口を目指すけど、さすがに焦って今日はできなくて、通勤ラッシュの有象無象として職場に向かった。C6出口の前を流れる人の川を横切る瞬間なんてもう、なかなか通してもらえないから、さみしさを誤魔化す余裕がある時は、目ぇガンびらいて横切りそうな人を見ながら通してもらっている。が、この前、「これガン見した人が職場の人やったらどうしよう……」などというリスクにようやく気がついた。

「東京」は人が多くて嫌いとか、「東京の人」は冷たい感じするとか、そういうことは言いたくない。というか、単純に主語がでかい文章は大概さみしいので、好きではない。主語をでかくすれば説得も話すのも楽になるのかもしれないけど、主語がでかくなった瞬間、一気に一人ひとりの人間が見捨てられている感じがしてさみしい。それに実際、前住んでいた東京の西側の街は、人通りがなくて世界終わったかと思ったことあるくらいだし、「東京の人」なんて言っても、暮らしている人の中には、私と同じくそれぞれの道府県から出てきた人たちが大勢いるし、当然東京出身の人に優しくしてもらったこともある。当たり前なことに、別にどこの人だって、優しい人もいれば、冷たい人もいるし、冷たいと思っている人にも優しいところはあるんだろう。私の地元は九州だけど、嫌なヤツらもいたし、好きな人たちもいる。ただ、4月から始まった都心の通勤ラッシュへの参加が、私の人へのさみしさを少し大きくさせてしまっているのは本当かもしれない。

満員電車なんて、人がひとりの、命ある、心臓動く人としてじゃなくて、障害物になってしまっている気がして、悲しいし、さみしい(私は生粋のペシミストです。側から見て悲観的に考えすぎていることも、あるでしょう。)。そういうさみしさがあって、その度に小さくこの社会に失望するから、時にはマスクの下はアヘ顔で駅構内を歩くし、意味不明な左寄りエスカレーターのせいでできた長い列に入りたそうな人は入れるし、会釈もめっちゃするし、「すみません」も「あらーとぉざいます(ありがとうございます)」も、発する。そうすることで、さみしさを誤魔化しているし、抗っているつもりでいる。左寄りエスカレーターなんて、もう、おりこうな委員長みたいに「あの!2列になりませんか?そうすれば、もっと早く地上に出れると思うんですけど!」て……言いたいけど、言えるんならもう言ってるよな。

ぜんぶ勘違いなのかもしれないけど、何がさみしいって、建前の「今度ご飯行きましょう」とか、政治家が平和記念式典でぜんぜん思ってなさそうなこと言うとか、「男に好かれる女はこれをしている(逆も然り)」みたいなのがバズったり、世界はそれどころじゃないのに、小綺麗な食べ物とかモノとかで満たされている人たちとか、テキトーな言葉で人を焦らせて金儲けようとしてる広告とか、容姿の優劣を黙って許容し続けるような行い、とかか。

羅列したら全貌が明らかになった。たった今。

人とか企業とか、いや、結局人、が考えるのやめて適当に、もう考えるのを諦めるのが当たり前みたいに、人との関係とか、仕事とかを建前に甘んじてやっていっているのが、私はずっとさみしかったんやんな。なぁって。そして正直私怨もすごいある。

考えないってことは、無関心ってことと同義みたいに思えるからだ。

世界はぜんぜんそれどころじゃないのに。
抗う方法って、他にも思いつくけど、ひとまずその場しのぎで、自分がさみしさで諦めて思考停止になって、通勤ラッシュの人たちのことも諦めないように、アヘ顔で出勤すりゅ。


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