ほんとうに欲しいもの
気づけば明日から12月。
今年もひとりで過ごしてきた。
いつもそれなりにオシャレを楽しんできたけれど、どうせオシャレするなら好きな人に見てもらいたい。それが張り合いってやつだ。つまり彼氏がほしい。
これは強がりではないのだが、私は結婚したいとは思ってない。というより、結婚につながるような深いお付き合いを望んでいない。もっと正確にいうと、結婚するには双方の要望のすり合わせが必要なわけで、私は自分の家庭が世間一般の基準からみて大変にイレギュラーだと自覚している。そんな我が家の特殊事情に対して、相手方に合わせてもらうことが心苦しいし、そもそも不可能だと思っている。だけど真剣なお付き合いの先には、どうしたって当然「結婚」という二文字がちらつくわけで、そこに至るまでの道程の煩雑さが耐え難く感じる。
男女関係に限らず、私は人付き合いにおいて、常に深いところには立ち入らないよう、一定の心理的距離感を保つように心掛けてきた節がある。
以前、同僚から「○○さんは人の話はよく聞いてくれるけど、自分のことは意外に話さないですよね」と言われた。そのことを当時の彼氏に話したら「その人は核心をついてるね」と返された。そしてつい最近も後輩の女の子に同じことを言われた。「実は○○さんって自分のことは話さないですよね」と。
たぶん私は諦めている。仕事のことやら些細な日常の出来事やらについてはぺらぺら話すけれど、心の深いところで感じていることはどうせ理解なんか得られないと思っていて、はなから伝えることを諦めている。諦めている、というより、巧妙に隠している。自分のなかのマイノリティな部分、イレギュラーな部分が人付き合いをする上での引っかかりにならないよう、世間に対して標準を擬態している。
自分自身の人付き合いのやり口を、私はよく理解している。相手が心地よくなる言葉をかけてあちらの心を開かせ、相手の秘密をするりと引き出す。秘密の共有は、やがて代替のきかない結びつきになる。意図してそうしようとしているわけではないけれど、そうなってしまう。自分自身のそういう傾向に気付いたとき、わたしは自分で自分にちょっと引いた。これはとても非対称な関係性だからだ。
誠実なようでありながら、実は胡散臭い。誰かとたくさん笑い合っていても、どれだけ愚痴をこぼし合っていても、自分の心の奥底に通じる扉にはだれも立ち入らないよう巧妙に誘導している。
理解してもらうことは贅沢品なんだとわかっている。本気で誰かとわかり合おうと思ったら、傷つくことも消耗することもわかっている。その先にあるのはどうせ明るくない未来なんだろうって思っている。
わたしには、だれかにきちんと向き合う勇気や誠実さがない。いや、それ以前に自分に対してすら真摯に向き合えていない。自分に対して出来ないことを、他人に対してできるわけがない。当たり前だ。
本当は、私が本当にほしいものは、愛し愛される関係性なのだと言うべきなのだ。結婚したいと思ってないだなんて、ただの強がりなのだと認めるべきなのだ。
だけど、本当に欲しいものは年々言いづらくなっていく。みっともなさと惨めさと前例が言葉の関所にいて、あなたは通せないと待ったをかける。
そんなふうにして私の「愛されたい」や「結婚したい」は他のどうでもよい言葉たちに先を越されて、ずっと喉元につっかえている。
いつか誰かと対称な関係性を築き、関所を無条件で開けるときはくるのだろうか。